22 ちょっと英語のハナシ 2

 ニュージーランド(以下NZ)の英語は聞き取りやすいと思う。イギリスとアメリカの英語を二大宗派とすると、NZ英語はイギリスのほうに近い。そもそもNZに入植してきたのはイギリス人なんだからあたりまえである。ただし、英国人はNZ英語のアクセントをバカにしているフシがある。オーストラリアもNZと似た歴史背景を持ち、小生には似ていると思えるこの二国の英語、実際にはお互いに「似てるわけねぇだろ」と犬猿の仲である。オーストラリア曰く「NZなんて地の果てのイナカ、英語だってイナカくさいぜ」。NZ曰く「オーストラリアはイギリスの犯罪者の流刑地だったんだろ。そいつらのダメ英語由来ヨ」。

 このオセアニアの二国は、庶民のレベルでは事あるごとにいがみ合っているので、もし似ていたとしても「違う」と譲らないだろう。いずれにせよ厳密な両者の違いはしがない移民の小生の手に余る問題なので、語れません。

 

 それではNZの英語を掘り下げてまいりましょう。

 アメリカの映画等で聞く「Hey buddy」のバディ、NZでも言う人がいるけれど、圧倒的に多いのは「mate」である。使いかたはバディと同じで、あいさつの後、文章末尾におまけのように付く。例えばその日一発目のあいさつ「Good day mate」。日本語に訳すとすれば「よう」としかいいようがなく、mateの部分に意味なんかない。「Hey buddy」だって訳せば「よう」なんだから同じである。「Good day」もオセアニアならではらしいが、イギリスでも言うのかしら。これは「ハロー」よりくだけた言いかたで、生徒が先生にあいさつするときはやめておいたほうがよろしい。とはいえ、一般的に銀行窓口のおねえさんやかかりつけのお医者さんに言うのは差し支えない。そういえば「day」もよくその発音が話題になる単語で、阿川弘之や宮脇俊三が、オーストラリアでは「ダイ」と発音すると書いている。オーストラリアの生の「ダイ」を聞いたことがないのは痛恨だが、NZでは「ダイ」と発音する人は、絶対いないとは申しかねるが、かなり少数だと思う。ただし、人により「mate」の発音が「メイト」と「マイト」の中間くらいのことはある。

 

 次は「aye」。これはフシギな言葉で、一応オックスフォードの辞書には載っているが、NZのそれと合致するかどうか微妙な説明であった。NZでは大人の男性同士が話すときに多用され、サバケた感じの女性も使う。ちなみに、強い言葉ではない。

 「Hey mate, finally beautiful summer day aye」

 「Oh yeah aye」

 あえて説明すれば付加疑問文の末尾みたいなもので、ひとつ目の「aye」は「isn’t it」、ふたつ目は「it is」と言い換えられる。けれど、江戸ッ子のような気質を持つNZ人はそんなシチ面倒くさい決まり事など眼中にない。肯定文?否定文?シャラくせぇ、「aye」ならどっちもカバーするじゃないの。

 使う頻度はひとによって様々で、もうなにを言うにもエイエイの御仁もいれば、それなりのひともいる。イギリスのテレビ番組の司会者が使っていたのを聞いたことがあるので、おそらくオーストラリアでも使っていると思う。あまりに日常過ぎて、こういう機会でもなければあらためて考えることなどないようなことである。

 

 と、ここまではNZで放送されているヨソの国のテレビ番組でもチラホラ聞くような言葉で、アメリカでは通じないかもしれないけれど、イギリス文化圏なら通じそうなものである。それでは、もう少し品下れる表現とまいりましょう。

 「よい」を表す「Good」、この意味で使う単語は非常に多彩だ。その中でひときわ異彩を放つのが「Mint」「Choice」「Sweet」「Cool」「Mean」「Sick」の6つである。Mintに関しては、なぜそう言うのか聞いてみたことがある。

 「おい、ミントってなんだ?」

 「ミント?ミントっつったらおまえ、あの歯磨きとかの・・」

 「違う違う、なんでおまえはGoodの意味でミントと言うのだ?」

 「・・・・、考えたこともない」

 これはまあ、意識しないで使っていることだろうから、明確な答えを得られなかったのは仕方のないことだろう。Coolはヨソの国でも聞きそうだけれど、ChoiceやMeanはどうなんだろう。Choiceは文章の中に入っているより、「Choice」と一言で言い切る場面で使われる。Meanは「意味する」の動詞、「ケチな」もしくは「イヤな」の形容詞が一般的で、これを形容詞として考える場合、なぜに反対の意味で使うことがあるのかフシギである。人を形容する場合は「イヤな野郎」の場合が多く、状態を表す場合は「大変よい」の意味で使うことが多い、ような気がする。Sickもまた然り、大抵の場合「見ろよあの車、すげえsickじゃん」のように使うので、文脈で判断できるから混乱は起こらない。そして、これらに限らず形容詞全般のあとに「as」が付くのがまさにNZ英語の真骨頂である。

 国際空港のオミヤゲ屋に売っているものの中には羊、シダ、マヌカ(花)、ファンテール(鳥)、キウイ(鳥または果物)、オールブラックスとNZを代表するもののデザインがあふれている。その中に「Sweet as」と書かれたマグカップやパーカーがある。ということは、これはおそらくNZ固有の言い回しなのだろう。「Sweet」と「Sweet as」の間に、その意味において違いは全くない。形容詞に付くと上に申し上げた通り、Good as、Terrible as、Sexy asとなんにでも付く。慣れると「as」なしではなにかが足りないような気もしないではない。ただし、「He is a good as guy」のようにasのうしろに名詞がくることはない。

 

 また、名詞のうしろに「y」を付けて無理やり形容詞を作ってしまうのも、もしかするとNZ英語だけの特徴かもしれない。聞いて驚いたのは「Christmasy」と「Chocolaty」の2語である。あえて訳すなら前者は「クリスマスらしい」もしくは「クリスマスぽい」、後者は「チョコの風味にあふれた」といった感じ。これらも江戸ッ子の横着精神のたまものではないかとニラんでいる。とにかく名詞の後に「y」を足すだけで形容詞に変えることができるのだから、なかなかにすばらしい発明といえよう。しかし、「Child(こども)」「Childish(こどもっぽい)」のように最初から派生語がある場合は、「Childy」のようなムリな言いかたをしないようだ。この類の語で、小生が出会った最高傑作は以下である。

  We wouldn’t say “fxxx” when we order something at a shop you know, we’re polite as, like when I’m in KFC, but like, I’d say it when I complain about something in the same shop, like ‘Hey, this fxxxin Chicken burger is not fxxxin chickeny enough !’.

 これは「F」で始まる例の悪い言葉に関しての心得を小生に説いた御仁の仰せで、細部はアヤシイが、だいたいこんな内容であった。それにしても「Chickeny」とは、このとき以外にほかで接したことがない。もしかすると咄嗟の造語かもしれない。アホらしいから和訳しないけど、なんとなく言うてることは判るじゃないの。

 

 「F」について触れたので少しNZスラングについても書いておきましょう。スラングといっても以下は「NZ独特の言いかた」くらいの言葉です。「Cuz(発音はカァズくらい)」はmateと同じ意味で同じ使いかた、「Togs」は水着、「Chilly bin」はクーラーボックス、「Dairy」はコンビニ。これらは女子やこどもが口にしてもまったく問題ない単語で、例えばお店で売っているクーラーボックスに「Chilly bin 何ドル」と値札が付いていても誰も眉をしかめたりしない。

 

 強いスラングはといえば、例えば『Die Hard』でブルース・ウィリスがしきりに言っていた「Son of a bitch」、小生はNZで一度も聞いたことがない。アメリカのスラングかと思わないでもないが、思い出したことがある。その昔『悪童日記』という本を読んだことがあり、その中に「淫売の子め!」という表記がよくでてきた。文脈から罵っているだろうことは理解できる。原文はフランス語らしく、とすると、フランスにも同様の表現があるのかもしれない。いずれにせよ「淫売の子め」はないよね。でも「このクソガキが」にすると誤訳になっちゃうのかな?ちなみにNZでこれに代わる表現はというと、「Fuck you」、「You mother fucker」(この「You」はあってもなくても)らへんでしょう。

「Bull shit」もよく使うスラングです。悪い意味で使うこともあれば、語尾を下げるふつうの発音で「Really?」くらいの意味で使うこともある便利な表現ですな。

 このほか、「Piss」は通常おしっこを表すスラングなのに、ビールの意味で使われることも多い。雨を指すこともある。「Pissed」だとイヤなことされて怒っている、もしくは酔っぱらったという意味もある。「Shit yeah」の「Shit」はうんこの意味なのに、この場合なぜか「そうだよね~」くらいの賛同の意を表す。「Dick head」は直訳すればチンコ頭だけど、「分からず屋」をウンと強く言う表現であったりして、いちいち書き出していたらキリがない。

 上記非常に強そうに聞こえる表現はなにも悪意に満ちた会話だけに使用されるわけではなく、仲の良いオトナ同士の和気アイアイとした会話でもふつうに登場することを追記しておきたい。また、「Son of a bitch」以外の強いスラングは、NZ独特の表現ではないかもしれない。

 

 つらつらとここまで追ってはみたものの、小生は英語のエキスパートではないので、いかなる責任もとりません。そもそもNZ以外の国に住んだことないもの。ただし、NZに来てクリスマシーと言えば通じるし、スイート・アズと実際に言う人はそこいら中にいる。どうしても生で強いスラングを聞いてみたい、という奇特な人あらば、職人さんと友だちになることをおススメします。日本NZ問わず、職人さんの言葉は荒いから、きっと目標は達成できることでしょう。人相は悪くても、いいひとが多いですヨ。

 

2026年1月 擱筆

21 浦島太郎

 昔話について書こうと思う。まずは浦島太郎をやりたい。

 古くは日本書紀や万葉集らへんを起源とするらしいが、ここではみんなご存知の「カメ」を助け、「龍宮」に行き、「乙姫」がもてなし、「玉手箱」でじじいになる例のやつを今回の浦島太郎と定義する。書くにあたって底本とした福音館の『うらしまたろう』には乙姫の親父が登場したが、登場しない本もたくさんあるのでここでは取り上げないこととしたい。

 

 大和朝廷や日本のヘソと同様、浦島太郎もあちこちに我こそと名乗る町があるらしい。何を隠そうわが故郷もそのうちのひとつで、横浜市神奈川区には「浦島町」なる町があり、当然のことながら海に近い。そして、浦島太郎発祥の地であるゾと声をあげている。埋め立てにより現在は直接海に接してはいないが、その昔は海辺の町だったはずで、つじつまも合うじゃないか。塾に通っていたころの同級生にウラチュー(浦島丘中学)の連中がたくさんいたけれど、やつらは浦島太郎については一言も話さなかったのではあるまいか。地元のヒーローはもっと大切にしないといけないよ。

 

 さて、神奈川区浦島町出身と思いたい浦島太郎は海辺にいた。横浜にウミガメがいたかどうか疑問を禁じえないが、本牧(横浜市中区)の古老曰く、

「ソーマちゃんよぉ、昔はサ、海は間門の交差点トコまで来ててサ、アサリなんか取り放題だったんだよ、ソーマちゃあん」

とのことなので、海はキレイだったはずである。実際太平洋にはウミガメが広く分布していることでもある。

 そのキレイな海ならばウミガメがいてもよさそうなもんで、そのカメが近所のガキどもにいじめられていたとする。ふつうならそれを見たおとなは特にドウという感慨ももよおさずに通り過ぎるところ、太郎ちゃんはカネを渡してカメを引き取り、放してやったらしい。まず、「カネを払う」というところ(底本では獲った魚と交換)、おかしくないか。相手はこどもだから、「おい、カメがかわいそうだろ、放してやらんか」と怖い顔のひとつもすれば、こどもはギャーと泣いてカメを放免するはずだ。もしかすると「法律上こども」というだけで、14~16歳くらいの、見るからにタチの悪そうなのが5人ほど、生きたまま無理やり甲羅でも剝がして海辺でカメ鍋でも食うつもりであったか。そうであったなら、「キ、キ、キ、キミたち、カメがかわいそうじゃないか。これやるから勘弁してやってはくれまいか」とかなんとか、声をかけただけでもその勇気賞賛に値し、その上交渉は成立したんだから大変立派である。獲った魚くらいでは交渉にならず、現在の貨幣価値にして少なくとも1~2万は渡さないと悪ガキどもは首をタテに振らなかったろう、なかなかに痛い出費である。

 

 太郎ちゃんが龍宮に行く過程については、小生引っかかるところはない。「おいおい、浦島はエラ呼吸でもするんか」などというつまらぬ文句をいうつもりは毛頭ない。

 そんなことより真打ちの乙姫、こいつについてはいろいろあるゾ。カメが乙姫本人であったという説と、カメは単に乙姫の手下であったというのと二説あるらしい。基本的に、現代においてこの手の昔話はこどもに読み聞かせるのを本道とするため、カメが乙姫本人の假の姿であるといった想像は、こどもにとっては及びにくいのではないか。とすると、乙姫は手下であるカメを助けてもらったお礼に夕食のひとつもご馳走しようじゃないかと考えたことになる。迎えをやって自分チに招待するというのは、善意を受けてお返しをしようとする側にとっては少し不遜ではないか。ここは当然カメとともに浦島宅へ馳せ参じ、お礼を述べて菓子折りのひとつも渡すのが本来の礼儀ではないのか。しかし、昔の人の生活は変化に乏しく刺激が欲しかったのか、もしくは太郎ちゃんは底抜けの善人で人を疑うことを知らなかったのか、カメの誘いを受けてドコの馬の骨ともわからない乙姫なるやつの家へ向かうのである。

 

 ま、着いてみればそこは龍宮城、乙姫はやさしく美しく、供されたメシは普段の生活からは想像すら及ばないご馳走、タイやヒラメは自分のために舞いに舞う。タイやヒラメが舞って美しいと感じるかどうかは評価のわかれるところだろうけれど、公平に見てタイは美しい魚であり、輝くピンクの肌には青い斑点なんか散っている。なんとなれば目の周りにもその青が差していたりして、見ようによっては妖艶とさえいえる。ヒラメは体の片方に見るべきすべてが集まっている不思議な構造だからして、評価は分かれようが、ピラピラしているから舞うにはいいのかもしれない。いずれにせよそれは小生の主観であって、肝心の太郎ちゃんは時のたつのを忘れるほどごちそうも舞いも堪能したらしいのでヨシとしたい。

 ここの「時を忘れる」のくだり、それがいちにちだけのことならば我々にも起こりえる気はするが、何日も、ということだと首をかしげたくなる。例えば、酒を飲んでいるうちになんだか世の中のすべてのことが楽しくなっちゃって、おしっこに立ってふと時計を見ると「ああ、終電行っちゃった!」くらいなら判る。しかし、何日も時を忘れてということだと、寝て起きて、便所にも行き、歯を磨く瞬間だとか我に返るスキはいくらでもあったはずである。にもかかわらず楽しくて楽しくて何日も居座るのだから、太郎ちゃんの精神構造にも缺陥がありはしないか。もしくはこの乙姫、どんなたくらみがあるのか知らぬが、コッソリと薬を盛ったりしてやしないか。もしそうなら大問題だぞ。もしか太郎ちゃんとネンゴロになっていたとしても(底本では結婚している)、そうまでして太郎ちゃんを引き留める必要などあるのか。そもそもおまえの恩人ではなかったのか、おい。

 3日間何の連絡もせずに家に帰らなければ、普通なら家族は警察に相談に行くのではないか。少なくとも血眼になって行方不明者の行きそうなところを探したり、友人に当たってみたりするはずだ。その家族、太郎ちゃんの場合は年老いた母上、の心配をさせるスキを与えないのだから、すごい薬だ。乙姫さんよォ、これが現代ならかなり大きなニュースになるよ。

 

 そんな太郎ちゃんではあったものの、薬の効果が薄れたためかどうやら我に返る瞬間はおとづれる。しかしながら、残念なことにはそれまでに3年もの月日を要した。とにもかくにも我を取り戻し、帰れることになった。3年なら母上もまだ健在かもしれないじゃないか。NHKの朝ドラ『澪つくし』の惣吉は帰るまで確か2年くらい、それでも帰ってきた。3年はそれよりは少し長いけれど、完全に音信不通の状態からでも帰ってくる人はいるものだ。

 で、我に返ったなら、渡された「玉手箱」なるものがいかにアヤシイものなのか想像がつきそうなものなのに、とにかく帰れるんだからともらっちゃうのは失敗であった。3年不在のつもりで帰ったのに、実際は300年。初出が上代の文献だからいいものの、近世だったなら帰ったところは現在からみて未来ということになり、例の透明チューブの中を車や電車が走るのを目の当たりにしただろう。もしくは未来の世界のネコ型ロボットがそのへんをウロウロしているかもしれない。

 

 閑話休題、龍宮城での時間はこの世の100倍、假にいちにちしか滞在しなくても、母上を心配させるに十分である。当然乙姫はそのことを知っていたはずだから、確信犯である。やはり菓子折りを持って浦島家へ行くべきであった。

 そこへとどめの玉手箱。一応これは善意の贈り物であって、こども用の本には書いてなかったように思うが、中身はどうやら太郎ちゃん自身の魂らしい。外の世界は300年たっているけれど、魂さえ守れば帰るなり300年分トシをとって死んじゃったりしないで済むということらしい。しかしだね、恩を受けた人間を3年もの間監禁し、お前の命の保証はしてやるからいいだろとは許しがたい態度だ。自分の母上が北条政子程度の有名人ならばだれかが「ああ、そのひとなら300年ほど前のひとでしょ」と教えてくれる可能性もあろうが、無名の母上のことなどだれが知っていよう。みなさんのお住いの近所に300年前にだれが住んでいたか知ってるヒト、いる?帰ってきて自暴自棄の太郎ちゃんがヤケになって玉手箱を開けてしまうのは自然の理である。この点を責められるひとはいないと思う。

 

 これは乙姫なる女の悪行についての物語である。太郎ちゃん以外にも犠牲者がいるに違いなく、教訓などあろうはずもない。太郎ちゃんは軽率であるという指摘は免れないけれど、純粋なる被害者であってまったく救われない、と結論づけて擱筆したい。

 

 2023年 9月 擱筆

 

20 ウェリントン 2

 前回からの続きです。

 

 海から300メートルも行くと、すぐに山が始まる。標高を論じても仕方のないような起伏ではあっても勾配は結構きつく、登ったところにあるボタニック・ガーデンへはケーブルカーが通じている。これには100年を超す歴史があり、昔は純粋に人の役に立っていたらしい。現在のように誰も彼もが自動車を持てる時代ではなかったから、仮に引っ越しを考えてみると大いにうなづける。荷物を満載にしたリアカーがあるとして、それを上まで引けるかと問われれば、小生の答えは否である。3人いてそのうち1人ないし2人は後押しという、一昔前の碓氷峠を行くD51のような条件であったとしても、正直やりたくない。下駅と上駅の高低差は100メートルちょいしかないらしいが、自らの足で登った限りでは、単身なら楽勝でも、ムスメをおぶったら息ゼーゼーの勾配である。ちなみにケーブルカーを実際に引っ越しに用いたかどうかについては小生において一切不明である。現在はどちらかというと観光客相手の商売になっているようで、上駅で観察していると、観光客9割、地元の急ぎの客1割といったところか。上駅からの眺めはウェリントンを紹介するものならまず間違いなく載っている写真そのもので、海と街を眼下に一望し、下からケーブルカーが上ってくるという構図である。

 上駅にあるボタニック・ガーデンはほかの街のとは違い、斜面に作られている。よって散策は上ったり下ったりの連続である。街に向かっていない方の面も同じく急勾配なので、リアカーを山の周りの平らなところを半周して上へ辿り着こうとしてもキビしいのである。しかしながら上にも古そうな家がいっぱい建っているので、屈強なる先人が大勢いたに違いない。

 

 それでは、海と山に挟まれた小さな平地に目を向けよう。そこはCBD(Central Business District)と呼ばれる商業地域で、要は街のど真ん中である。探せばどこかに一軒家が紛れ込んでいるかもしれないが、東京駅近辺に一軒家を想像できないのと同様、基本的には商業ビルばかりである。まず、南島に住んでいる者は高層ビルの多さに驚く。クライストチャーチのCBDにも高層ビルはあるが、隣り合って林立しているというわけではなく、あっちに1棟、こっちに1棟といった感じである。ウェリントンではずらずらと並び立ち、しかも2棟の隙間は、ひとが横になって歩けるのか疑問に思うほど狭い。そしてスペースが限られているために、土地の有効利用を考えるとどうしても高くならざるを得ない。日本の都市と同じである。高層ビルだといっても必ずしも新しいわけではなく、その中に時代を感じる古い建物も紛れ込んでいて、高さは近代建築物に及ばないものの、威厳があって、ほかよりエバって見える。

 そのうちのひとつに、オールド・バンクと呼ばれるビルがある。当然建てられたときから古銀行と呼ばれていたわけではなくて、バンク・オブ・ニュージーランド(BNZ)・ビルが元々の名称である。現在BNZは入っておらずショッピングセンターとなっていて、出入り口の目立つところにスターバックスがある。中には海外からの観光客風が3人くらい、へぇ、空いてるスターバックス珍しいなと思いつつビルに入って合点、老舗と思われるカフェが大人気の満員御礼。通路に出ているテーブルを合わせると20卓以上ありそうなのにすべてふさがっている。大分の中津でケンタッキー(KFCのことね)が一度撤退の憂き目にあったのと同じ現象に違いない。

 ビルの1階部分はお店が入っていて、上層階はオフィスとなっているのが多い。それら店の多くはどこの街に行っても見られるチェーン展開している店で、せっかくウェリントンに行ったのに、この店知ってる、あの店も知ってるというものばかりである。ここがNZという国の新しさを感じるところで、日本のようにそれぞれの地域に古くから根ざしている文化のようなものは見当たらない。讃岐を旅すれば200円でうどんが食え、京都は寺社仏閣だらけ、津軽の会話は一切聞き取れないということが起こらない。そういう意味ではNZ国内旅行はつまらないと言えようが、行ったことのない街には知らないものがあるので、やっぱり今年もどこかに行く計画を立てるのである。

 オフィスでない上層階がマンションになっている場合も少なくない。それらマンションはCBD内で唯一ひとの住める場所のようだ。街の北西方向に山があるので日当たりはあまりよろしくなさそうである(太陽は北を通るヨ)。たまたま昼飯を食いに入った店の向かいがマンションで、2階の窓際にネコがいた。小忙しそうに歩く人間共をバカにしているのか、日陰とはいえ日向ぼっこしているのか本人に確認していないが、おそらくそのネコは、外に出て遊ぶ自由を知らない。ふつうNZのネコは屋外を自由に遊び回っている。うちにいたネコもそうであった。自由を尊いと思うのは人間の勝手な価値観だから適当なことは申せないが、NZにもいわゆる「いえネコ」がいることに初めて思い至った。

 

 ところで、文化とはいえないがウェリントンにしかないものがある。先の稿でも少し触れた通り、それは政府機関である。一国の首都なので当たり前のことだけれど、その外観からビーハイブ(Beehive/蜂の巣)と呼ばれる国会議事堂はこの街の北側にある。繁華街を抜けるとにわかに展望が開け、テレビでよく見る建物があらわれる。市井の民が無許可でプラプラと近づくとオソロしげな守衛さんに追い返されたりしそうだが、ここでそんなことは起こらない。とはいえ、実は日本の国会議事堂でもそんなことは起こらず、意外と門戸は開放されているらしい。所持品検査があり、こどもを含む誰でもが入場でき、中におみやげ屋さんがあり、無料のツアーに参加すれば議場を見ることができるというのもすべて同じである。違いがあるとすれば次のふたつである。まず、NZの国会の目の前の広場には、こどもが遊ぶための遊具があることだ。ふつうに街中の公園で見かけるのと比べると物足りない感じはするものの、間違いなく敷地内に、こどもを意識して作られたものがある。実際にオトナにつきあわされたこどもが遊んでいる。もうひとつは、国会議員さんがそのへんを歩いていることである。われわれが見かけたのは名も知らぬような議員さんであったが、黒塗り、黒ガラスの高級車で乗り付け、秘書だかドアマンだかがドアを開けなければ降車してこないだろうイメージの日本とずいぶん違う。

 前にこういう話を聞いたことがある。知人がスポーツジムでエアロバイクを漕いでいたら、婦人が隣のバイクを漕ぎ始めた。何気なく見てみるに、なんと首相閣下ではないか(ヘレン・クラーク/Helen Clark)。ジムはお金持ち御用達の高級なやつではなくて、そこら辺どこにでもあるやつである。知人は感極まり、英語圏での慣習に従って「やあヘレン、こんにちは」と挨拶すると、ふつうに笑顔で挨拶を返してくれたそうだ。中にはふんぞり返っている議員もいるのだろうが、NZにおいてはまずまず起こりそうだと納得できるエピソードである。

 ほれ、NZのほうがサバケていていいだろ、と書きたいところだけれど、どっこい日本でもこの手の話を聞いたことがある。これは議員さんではなく、今上陛下が皇太子殿下であった頃のエピソードである。国会議員と皇太子殿下を比較するべきでないのは十分承知しているつもりではあるが、類似しているという一点を強調してぜひ書いておきたい。話はこうである。公園でお母さんたちがこどもを遊ばせていると、なにやら遠くから見たことのあるひとがニコニコと歩いてきたそうだ。そのひとこそ殿下で、お忍びで散歩をしておられたらしい。挨拶をし、ひと言ふた言軽い会話を交わし、やはりニコニコと立ち去られたということである。真偽のほどは定かではないが、これまたありそうな話だと思ったことを覚えている。

 

 話が大いに本題からそれました。ビーハイブの近所には国立図書館や各省庁、裁判所に中央駅などがあり、見学したい場所が目白押しである。狭いからこそ歩いてすべてを網羅できるのがウェリントンの魅力である。交通機関も四通八達しており、繁華街にあるホテルを歩いて出て、晩飯を食って帰ってくるまでに見た路線バスの数は、ムスメ共の勘定では100台をゆうに超えた。通勤に便利な電車も通っている。街なかに住むところがなくとも、また、車を所有しておらずとも、意外と便利に生活できるのかもしれない。ただし、旅行でなら楽しいけれど、根がイナカ者の小生はこの街には住めないナ。

 

2025年 8月 擱筆

 

19 ウェリントン

 ニュージーランド(以下NZ)の首都はウェリントンという街である。NZに特別な興味を持っていない限りは、オークランドの名前のほうが先に出てくるのではないだろうか。少なくとも日本からやって来る飛行機は、ウェリントンに直接は来ない。行きたければオークランド乗り換えである。これはオークランドが首都として先に発展したことで人口規模が圧倒的に大きく、政府機関を除けば今でも主要な企業が本拠をオークランドに置いていることからも想像が容易である。オーストラリアのキャンベラや、カナダのオタワも状況が似ている気がする。というのも、オーストラリアにはメルボルンやシドニー、カナダにはモントリオールやトロントがあるからである。上記3箇国はかつて英国の統治下にあったという歴史を持っているので、なにか共通した理由があるのかと思わないでもないが、実際は各国それぞれの事情によるようだ。

東京があまりに集権的になっているからどこぞに遷都しよう、という話がずいぶん前から巷間に噂され、未だ実現を見ないということを知る日本人の目から見ると、ウェリントン遷都もその理由かな、とつい思ったりする。しかし、国の真ん中らへんに首都を移そう、という簡単な理由であったらしい。ちょっと拍子抜けした。

 

 そのウェリントンに、NZに住むようになって19年余、初めて行ってみた。

 そもそもウェリントンに行きたいから行ったわけではなくて、もののついでに立ち寄ったにすぎず、1泊2日の滞在である。西に小高い山があり、東は海、限られた狭い範囲に見るべきほとんどのものが集約しているので、たった2日間とはいっても意外といろいろ見られるものである。

 

 こども連れの我々がまず向かったのはテ・パパ(Te Papa)が愛称の国立博物館である。海に面した第一級の立地に、ドーンとそそり立っていた。数年前より海外からの観光客に限り入場料を徴収するようになったらしく、2日間(厳密には48時間)有効の入場券が35ドルもするらしい。我々はウェリントン市民ではなく、したがってウェリントンに市民税を納めているわけでもないが、NZ永住権を持ち在住、なにより国立であるためタダであった。といっても、口頭にて受付のニコニコおねえさんにその旨伝えただけで、とくに証拠となる何物かの提示を求められることもない、ゆるい感じのルールのようである。

 さて、来館経験のある友人知人たちには事前に、とても一日ですべてを見ることはできないと教えられ、入館するやただちに納得。とにかく広く、しかも6階建て。こどもがいちいち立ち止まるので、我々はすべての展示を見られるはずもなく、ちょっと流しただけで3時間を費やした。おとなの小生と妻の印象に一番残ったのは、入って正面にあるアンザック(Anzac/オーストラリアとNZ軍)のトルコでの第1次大戦に関する展示である。当時実際に使用していた武器や服装などは当然であるが、映画『ロード・オブ・ザ・リング』の制作をしたウェタ・スタジオ渾身の兵士の模型はトリハダものの迫力である。実際の人間の何倍の大きさに作られているのか判らぬが、銃を持った手だけで小生が抱えるのに苦労するくらいの大きさである。非常に精巧で、例えば腕に生えている毛が、空調設備によって作られるホンの少しの空気の流れにホヨホヨとなびき、肌はまったくもってヒトの皮膚そのもの。触れば体温があり、手首から脈が取れるのではないかと想像したくなる出来栄えである。それら模型は現存した人物をモデルとしており、当然のことながら写真も残っている。その人物にまつわる物語にも興味が持て、ヨソの国の戦争とはいえ、いい勉強になりました。

 もう一点ホホゥと思ったのは、NZの鳥、動物の剥製標本である。これらは我らのカンタベリー博物館(クライストチャーチ在)にもあり、展示される種の多くはどちらでも見ることができる。しかし、素人目に見て、テ・パパの剥製の出来のほうがはるかに優れているようだ。これは国立と市立の予算の違いなのか、新旧の差なのか判然としないが、なにか敗北感に似た感覚があり、また、妙に納得もした。

 

 テ・パパを出て裏に回ると、すぐ海がある。言ってみれば、いつも地元の話で恐縮であるが、ホテル・ニューグランドと山下公園の位置関係である。ただ、その間に道がないことを考えると、山下公園の中にホテルがあれば、もっと似ている。海に面した部分に特別な名前は付いていないようだが、杭の上にアスファルトのデッキが打ってあるところも、見た目は山下公園に似ている(山下公園は瓦礫の上をアスファルトで整地)。

 前方右には小高い山があり、その少し向う側にウェリントン空港があるため、飛行機がよく飛んでいる。目を転じて公園の左奥を見るとフェリーターミナルがあり、南島のピクトンとを結ぶフェリーが大体いつも舫ってある。この界隈は湾になっており、そこを抜けて進路を西に取れば3時間半程度で南島である。

 その公園で、大きめの石を積み上げて自然な海岸ふうにしてある一角がある。人だかりがあるので近づいてみると、オットセイのこどもが1頭、どでッと寝っ転がってご就寝中である。NZの海岸にオットセイは少しも珍しくはなく、当然初めて見たわけでもないけれど、一国の首都の公園にそれなりの大きさの野生動物がいて、しかも安心しきって寝ているという事実はほほえましい。またもや引き合いに出すカナダのオタワを流れる運河にも幻の魚といわれるマスキーがいるらしいから、忙しい都会であっても自然と文明は、ひとの善意がうまく作用している場合には、それなりに共存するという見本みたいなものである。

 

 また別の一角にはみやげ物屋やカフェがある。このすばらしい景色のなか歩きながらコーヒーの1杯も飲もうじゃないか、と妻が買いに行った。戻ってくると陶製のマグカップを持っている。店内で飲むわけじゃなし、なぜテイク・アウェイ用の紙コップじゃないのかと不審に思って訊くと、以下のような事情らしい。

「コーヒーくださいな。」

「大きさはどうする?」

「ラージでお願いします。あと、テイク・アウェイのカップで。」

「あ~お客さん、うちはねぇもう20年も1回こっきりで捨ててしまうような紙コップは使ってないんですよ。マグもお客さんたちのお古をもらったりして、そういうのをずうッと使ってるの。そこにあるのがラージだから好きなの選んで。」

妻が指さされたほうをを見ると、あちこちからの寄せ集めのせいで形も大きさもバラバラ、どれがどのサイズなのかまったくもって不明であったらしい。見回しても至近に別のカフェがあるわけでもなく、結局持ってきたのは一年のど真ん中にふさわしいサンタさんの柄で、歩きながら飲んで、終わったら捨てるというわけにもいかず、返しに行く手間もあり少し面倒くさかった。

 もちろん、その店主の判断に反対するわけではない。こういった極端なのは多くないものの、NZには環境に配慮していることを前面に押し出している店が少なくない。メニューに「ベジタリアン用」とか、なんとなれば「ビーガン用」ということを明記してあることも多い。プラスチックのストローやスーパーのビニール製レジ袋は法律で使用を禁止されているし、使い捨てのプラスチック製フォーク、ナイフの類も飲食店での供給は禁止である。木製、紙製なら大丈夫なので、そこにかすかな疑問を持たないでもないが、ともかく、法律でそういう事になっている。ひとの考えかたはそれぞれであるため、他人がとやかく言う筋合いでもない。ただ、割れなければ永遠に使用できるマグカップと、飲み終わったら捨ててしまう紙コップと、選択の余地がないのが気に入らない。紙コップは法律で禁じられてはいない。土に還る使い捨てのコップを使用している店もある。マグカップの使用を勧めるのは問題ないし、マイ・カップ持参の客もいよう。それでいいじゃないの、と、小生は思うのであるが、如何。

 

つづく

 

2025年7月 擱筆

18 フィッシュ&チップス

 ニュージーランド(以下NZ)の食いものの話をしましょう。

 NZは立憲君主制国家なので、今なおイギリスの影響が強く残っている。ように思う。直に見る機会も多々あるため、少なくとも食生活においてはそのようだと申し上げて差し支えないように思う。イギリスのことなんて何も知りませんがね。

 今でこそ街へ出れば外食、テイクアウト(NZではテイク・アウェイという)店が百花繚乱、スシ、カレー、中華、タイ、数え上げれば枚挙にイトマがない。けれど、その中ですたれることのない人気を誇るのは、伝統のフィッシュ&チップス(以下面倒なのでF&C)である。

 

 F&Cはイギリス発祥、説明するまでもないように思うけれど、魚の揚げたのとチップス(フライドポテト)のコンビである。

 魚は白身で、魚屋が経営している場合はタラや鯛などの選択肢もあったりするが、通常は身元不明である。ある人は鮫肉だといい、またある人は深海魚だといい、ま、小生はおいしければ文句はないのであって、店員に訊けばカドが立ちそうでもあり、余計な詮索はしないのである。それなりのカネを払ってタラを注文すればみずみずしいのが出てくるけれど、たまに引くパッサパサのハズレでも、衣の油分に助けられてまあまあ食える。その衣は、天ぷらよりずいぶん厚い。ほんの少し甘みがあって、ベーキングパウダーかなにかで膨らんでいるフシがあるため、油さえしっかりと切ってあればサクサクである。

 チップスはマクドナルドのポテトを4本束にした太さで、長さはマチマチ。小さい切れッ端の部分は他のに比べてカリカリ感が高く、うっかりそこがウマイことを教えてしまったばかりに、いいトシこいた小生と2人のムスメはいつも醜いバトルを繰り広げる。少し前まではどの店でもチップス1人前の量に大差なかったところ、今は店により少ないことがある。値段はどこも似たり寄ったりだからズシッとくる店のほうが当然人気が高い。

 政府が最低賃金を上げ続けるせいで、F&Cの値段もずいぶん高くなった。小生が初めてNZに旅行で来た1990年代後半、一番安かったのはフィッシュ1ドル、チップス1ドル計2ドルで、平均は4ドル近辺。引っ越してきた2005年当初、フィッシュ2ドル強、チップス2ドル強。これをみて判る通り、大抵フィッシュとチップスの値段は同じである。現在(2023年)の相場はフィッシュ、チップス共に3ドル半。

 

 ところで、チップス一人前は結構な量である。いちいち引き合いに出すマクドナルドのポテトLサイズなら2個分、もしかするとそれ以上あるかもしれない。初心者は大量に残ったチップスを見下ろし、志半ばにして無念の涙を飲む。ところがフシギなことに何度も食ってるうちに慣れてきて、食える量が増えてくる。一人前食えるようになると、文字通り一人前である。半人前というのも注文できるけれど、値段は半額よりはずいぶん割高で、やっぱり男である以上は一人前を頼みたい。そして、頼むからには完食したい。小生は一人前を食い切れる男の中の男であるが、仕事の日の昼メシにF&Cを食うことはない。食い切れるとはいっても腹はベラボウにいっぱいになるわけで、屋根張り職人である小生の午後の仕事に差し支えるのである。

 

 さて、ふつうに注文した場合、店員は揚げたてのF&Cにこれでもかと塩をふりかけ、専用のうす灰色の紙にくるんで渡してくれる。うちに帰るまでの車の中ではどういうカラクリか紙を通過して湯気が昇りたち、F&Cのニオイが充満する。包みを開けるのが早ければ早いほどカリカリ具合は保たれるわけで、店からの帰り道はいつも気が気でない。うちはいつも「塩無しで」と注文するので塩をうちで軽く振って、あとはケチャップ、からし、マヨネーズお好みのまま。なぜなら、普通に塩を振ってもらうと、しょっぱくて食えないよ。NZ人はそれだけの塩を分解できる頑強な内臓をお持ちなのかもしれないが、大多数の日本人にはちょっとキビしいんじゃないだろうか。これは薄味になれた小生の感覚だからアテにならないけれど、薬の処方量も日本の2倍がふつうだから、当たっている気もする。

 食べるときの基本のお作法は手である。うちでは手がヌルヌルになるのがいやだから軟弱にも割りばしを使うけれど、本来は手で食べて、食べ終わったあとの手は着ている服で拭くというのが正統である。油で汚れた口の周りは袖口か、襟首。小生もNZ人にならってそうしたワイルドな振る舞いをするべきではあるけれど、いろんな理由でやる勇気がない。

 

 上で少し触れたように、F&Cは中華のテイクアウェイができる店や魚屋が経営している店でも買うことができる。しかし、伝統的なのはF&Cの専門店である。結構な種類のハンバーガーも作ってくれたりするが、揚げもののメニューのバラエティには遠く及ばない。フィッシュだけだとちょっと飽きるなァという場合、ソーセージはどうでしょう。やたらに太くて長いにもかかわらず、お値段はフィッシュと同じくらい。ふつうソーセージというと高いイメージがあるのに、なんと良心的なことか。たぶん肉なんてあんまり入ってないんだろうが、ソーセージの味はするから何ら問題はない。揚げてあるから皮はパリパリ、ますますもって問題ない。そのソーセージに衣をつけた「ホットドッグ」なるものもあって値段は一緒、ガリガリ君みたいに平べったい棒に刺さってるから歩きながらだって余裕である。その他、パテというなにやら得体の知れないコロッケ風の揚げものや、チキンナゲット等もある。

 そこまでは我々日本人の想像の範囲内であるが、なんと、チョコバー(スニッカーズみたいなヤツ)を揚げたのがある。味はといえば、衣の付いたチョコバーとしか言いようがなく、当然なかのヌチャッとした部分は熱でドロドロ。日本でもアイスを天ぷらにする職人がいるけれど、チョコバーの場合はそういった「技」のようなものを感じることはなく、やっぱり衣の付いたチョコバーでしかないのである。もうひとつ度肝を抜くのは、メニューに「パイナップル」と書いてあるやつ。これは缶詰の輪っか状のパイナップルに衣を付けて揚げたもので、当然味は缶詰のパイナップル。NZ人はこれにケチャップを付けて食べる。小生は好奇心から一度食べただけで二度と注文しないとは思うけれど、酢豚にパイナップルが入っていることを思えば、少なからずファンがいることは想像にかたくない。

 

 さて、NZに旅行で来ていた小生若かりしころ、イギリスに1年ほど滞在経験のある友人とF&Cの話になった。

 「ああ、おれもあっちで試したよ。ビネガーとか付けて食べるんだよね」

 ええ?「びねがぁ」付けて食べンの?NZではそんな話聞いたことないぞ。小ジャレたレストランでF&Cを注文しても付け合せのソースはアイオリがNZの限界で、レモンが付いてきたりはするけれどお酢は知らないなあ。あっちは本家で元祖で発祥の地だから友人のいうお作法は正しいに違いなく、たかがお酢とはいえ何かオシャレだなッ、と思ったことでありました。

 上に小ジャレたレストランと書いたけれど、F&Cはテイクアウェイの安いのが本流だという認識がありながら、レストランやパブの定番メニューでもある。その場合の魚は身元が明らかで、値段は最低でも3倍は覚悟しなければならない。テイクアウェイの黄色がかったのと違う、いいおイモを使ってるんだろうなと思わせるチップスがテイクアウェイの3分の1ほど、少しサラダなんかのってたりもする。手で食っても誰もとがめだてはしないだろうが、皿にのってるからにはナイフとフォークで食うモンだろう。立ち食いと、ふつうのそば屋の違いがNZにもあると思えば納得できるような気もする。

 

 F&Cだけを語ってここまで来たことからも判る通り、小生はF&Cが大好きである。大好きだけれど、1人で食うよりは家族みんなで食うほうが楽しいし、大体ひとりでモソモソ食うとおかしな哀愁が漂いそうだ。じゃがいもには熱に強いビタミンCがいい量入っているし、身元不明とはいえ魚は魚、立派なたんぱく質であり、ムリヤリ考えれば健康的だといえなくもない側面を持ち合わせているといえなくもない。しかし、結局は大量の揚げもの。ムスメ共も大好きでアホみたいな量食うことでもあり、頻繁に食うわけにもいかないから、タマに食うときは余計においしいと感じるのかもしれない。

 

2023年1月 擱筆

17 眼の色

 白人率のそれなりに高い国に住んでいるので、いわゆる「金髪碧眼」はそのへんにたくさんいるといってよい。たくさんいるとはいっても、ほかの髪の色に比べると、意外と金髪の割合は低いようだ。しかも白に近いいわゆる「プラチナブロンド」ということだと滅多にいない。そういう女の子が通りかかったりすると「おお、ブロンディー」みたいな反応をする輩が多いことからも察しられる。また、「碧眼」は一般的にいって「青い眼」のことで、これも珍しくはない。珍しくはないけれど、びっくりするような青ということだと、これも滅多にお目にかかれない。ただ単に青い眼ということならばウヨウヨいるから特に意識しないで通り過ぎてしまうところ、たまに「なんちゅう眼だ!」というような美しいのに出会う。20年近くいて、3回くらいしか見たことがない。テレビとか写真ではなく、実際に眼の前にいてマジマジと拝見したとなると1回しか覚えていない。濃いわりには暗さがなく、透き通っていて、まるで真夏の空です。男女差はないんだろうけれど、できれば女性であってほしいナ。

 ただし、青いから美しいというわけではなくて、とにかくいろんな色の眼がウロウロしているからして、ほかにもきれいなのはいます。たとえば、薄い茶色と薄い緑の中間の色。英語では「ヘイゼル」といっていたように記憶しているけれど、これも美しい色です。明るくて薄い茶色もきれいだ。ただ、自分の眼の色とあまりに違うからモノ珍しさもあって「ハッ」としているだけかもしれず、しかし白人も眼と髪の色についてたまに話題にすることがあるから、気にするというほどではないにしろ、意識していないわけでもないようだ。ずいぶん前に「おまえらが金髪碧眼を意識するように、われわれ(白人)のなかにも東洋人の鋭い一重と濃褐色の眼にあこがれるやつがいる」と聞いたことがある。この「濃褐色」のところ、会話では「ダークブラウン」と言っていて、「黒」とは言わなかった。日本語で「黒い眼」と表現し、「わしの目の黒いうちは」というような慣用句もあり、なにやら東洋人の眼は黒いように錯覚しがちだが、光の具合等で黒く見えることはあっても、黒い眼の人っていない気がする。濃淡の差はあっても、だいたい茶色ではないかしら。

 

 さて、上記「眼の色」としたのは虹彩の色であって、その色によってまぶしく感じる度合いに違いがあるという。要は色が薄ければ薄いほどまぶしいらしい。もちろん個人差があるから一概にいえないものの、実体験として当てはまるような気がする。というのは、ニュージーランド(以下NZ)ではサングラスをかけている人の割合が日本のそれと比べるとはるかに高いからである。日本人と似た眼の色をしているマオリもサングラスをしているからファッションのためという見方もできようが、日本とNZの紫外線量の違いは数値によってハッキリ裏付けされていることでもあり(UVインデックスという)、目に見えない魔物ではあるが、大気も澄んでいるし、とにかくまぶしい国です。満月を見てまぶしいと感じる繊細なる小生の経験から申しあげて、NZは日本より間違いなくまぶしい。そこへきて眼の色が薄いときた日にゃあ、どうしたってサングラスが必要になるのだ。どうせサングラスをかけるならそりゃカッコいいやつがいいに決まっているけれど、とにかくまぶしいから眼の色のいかんにかかわらずかけるのである。

 ここNZは南島では街中にあっても高い建物はそう多くはなく、したがって太陽光線を遮るものが少ない。朝夕のお日様の低い時間に運転していると、真正面からビカーッと襲ってくる。バイザーを下げてサングラスを装着、しかしテキは正面にいるため、尻を浮かして目線を上げないことには何も見えない。危いことこの上もない。前後を走る車はすべて同じようにお日様を食らっているので、セッカチなNZ人もこのときばかりはみな徐行運転である。

 

 それでは金髪碧眼の「金髪」のほうももう少し掘り下げてみたい。日本人は他の民族の血が混ざっていないことが多いから、何代さかのぼっても黒髪で、当然われわれも黒髪で生まれてくる。たまに色素の関係なのか少し茶色がかった髪のもいるにはいて、たとえば黒髪同士の妻と小生の間にできた長女の髪は染めてもいないのに茶色い。当然妻、小生とも先祖をさかのぼったらどこかに突然北欧人が現れるということはない。日本の学校に行っているなら問題になるかもしれない程度に明るいが、NZにいるのでなんの問題もない。

 閑話休題。「金髪」といっても上記「プラチナブロンド」以外は誰に意識されることもないようで、しかもペンキの色見本のように種類があるから定義がむずかしい。観察によると自己申告で決定されるようだ。そもそもどんな色でもあまり頓着しているようには見えない。『赤毛のアン』のアンは髪が赤くて、それゆえにギルバートにからかわれたわけだが、ここNZでは髪の色が原因でだれかがだれかの悪口を言っているのを聞いたことはない。もちろん赤いの、黒いの、茶色いの、金髪、そして無限にあるその間の色と百花繚乱、移民国家のNZでは髪の色を問題にすると際限がないから気にしないのではなかろうか。

 気にしているというのとは少し違うことで、髪の色を変えたい人はいる。社会人であっても髪の色を変えるのは一切自由なので、特に女性は突飛な色の人をしばしば見かける。役所、銀行、警察のようなカタイところや、幼稚園や小学校の先生などにもウヨウヨいる。それも髪の色を変える多くの日本人のように黒と金髪の間のどこかの色にするというだけでなく、ピンク、緑、オレンジ、紫、なんでもいる。2色3色混ざっているのもめずらしくない。日本のサブカルチャーも多少入ってきていて、ゴシック調の服を着た白人が真ッ黒い髪に染めていることもある。染めた黒はなぜかわれわれの自然な黒と色味がちがい、しかも白人の顔貌に黒くて長い髪が乗っかっていると、なぜか少し異様に見える。ただし、もともと黒い髪の白人もいて、それはヘンに見えないから、黒に染めた髪というのがおかしいのかもしれない。

 話変わって、知りあいのおじいさん(故人)は出会ったときにすでに70過ぎ、おそらくは白髪だったに違いないが、90過ぎて亡くなるまで元の髪の色、すなわち赤髪に染め続けていた。本人は髪の色を「ジンジャー」と呼んでいた。その髪の色ゆえに若いころのアダ名は「ブルーイ」、反対色というのがその理由で、しかしそれはギルバートがアンをニンジン呼ばわりしたのとは少し趣が違うようだ。おじいさんの話では昔のイヤな思い出といった感じは微塵もなく、昔のNZにはそこかしこに「ブルーイ」がいたと思われる。ここからも髪の色に対するNZ人の感覚がうかがえよう。

 

 さて、生まれたときの髪や眼の色が変化することがあるらしい。北条司の名作『キャッツ・アイ』の最後のほう、瞳ちゃんの眼の色が変わってきたようなことがあった(ようなアイマイな記憶による)。「そんなこともあるのかなァ」くらいに読み流していたところ、NZに来て本当に起こることを確認した。確認といっても2例しか知らないのだが、ひとりは男性、もうひとりは女性である。男性はこどものころプラチナブロンド、現在は濃くも薄くもない、少し緑が入っているであろう茶色。女性のほうも同じくプラチナが茶系に変化した。共にオトナになってからの見た目しか知らないので想像もできないが、本人がそういうのだから間違いないでしょう。眼の色も変わるらしいのは友人の令嬢に起こりつつあり、パスポートの写真や生体確認などで困りはしないかと、ふとそんなことを考える。

 

 それでは最後に、男子なら気になる(?)あのことについて触れておこう。NZの男子トイレの構造は当然日本のそれと同じで、朝顔が並んでいる。近からず遠からず、厳粛なる気持ちでその前に立つ。そして、おしっこをする際の一番初めの儀式、すなわちチャックを下ろすなり、ズボン本体を下げるなりして分身をお外に出す。このとき、周辺で軽い摩擦が起き、それにより毛が抜け落ちることがある。もしくはその他理由によってパンツの中ですでに抜けていたのかもしれない。いずれにせよ、その毛が地面に落ちることもあれば、朝顔のフチにひっつくこともある。小生は専門的に調査するような趣味の持ち主ではないため、統計を取るとか、サンプルを採取するとか思いもよらないけれど、その毛には、髪と同じだけの種類の色があるようだ。金髪は白い朝顔の上では確認が困難であるが、どういうカラクリか、見えることがある。赤もある。茶もある。それを確認するに至り、なにかこう、ひとつのモヤモヤが解決したというそこはかとない満足感を得たことを申し述べて、擱筆します。

 

2025年2月 擱筆

16 ちょっと英語のハナシ

 まず始めに、小生は「日常会話に困らない程度に英語を話すひと」に過ぎないことを断っておきたい。以下英語について思いつくまま書いていくけれど、「あの野郎、またテキトーなことぬかしてやがんな」くらいの気持ちで読まれたい。

 

 さて、「データ」という言葉がある。いちいち日本語に訳すまでもなく、そのまま日本語として通じるご存知のやつ。これを英語話者が言うのを初めて聞いたとき、小生は度肝を抜かれた。なぜといって、ニュージーランド(以下NZ)では「ダータ」と発音するからである。そこで、手元にある辞書(ジーニアス英和)で発音記号を追ってみると、アメリカでは「デイタ」と発音するらしき気配である。そうか、「ダータ」はNZの心のふるさと、英国の発音なのかナと思ったところ、意外なことに英国でも「デイタ」、もしくは「ディイタ」くらいの発音らしい。おっと、こりゃNZの訛りなのかなと早合点しそうなところなれど、辞書には「ダータ」の発音記号も記載されており、主に英国、と注意書きがしてある。検索してヒットした英国の「ディイタ」はロンドンのお金持ちの発音らしき気配であって、それじゃ誰が「ダータ」と発音しておるのか。オックスフォードの英英辞典にも「ダータ」音がしっかり記載されているので、英国内でそう発音するのがいることは間違いなさそうである。どうやらオーストラリアでも「ダータ」らしく、またアメリカでもそう発音するのがいるようだ。ちなみに小生の18年に及ぶNZ滞在中に「デイタ」と発音するやつに出会ったことはない。すっかり慣れてしまったせいもあるに違いないけれど、「ダータ」のほうがカッコよくないかい?

 

 上記のように「英語」とひとくちにいっても、まず、英国とアメリカで違う。言い回しも違うけれど、そもそも発音がすごく違う。これは国産のテレビ番組が希少なNZゆえに体験できることかもしれず、要はテレビ番組の多くは輸入モノなのである。するともう両者の差は歴然、英語なんて何ひとつ聞き取れないひとでも、少し滞在すれば違いは判るはずです。日本語を覚えようと意気込むどこぞの外国人が、東京と大阪に2週間づついれば、「あれ~、なんか違うナ」と思いそうなのと同じことである。

 英語が第一言語の国はほかにもたくさんあり、その国の数だけ違った発音があると思っていいんじゃなかろうか。小生にとって経験上もっとも手強いのは南アフリカ、ジンバブエ、それとロンドンの労働者階級の英語である。聞くところによるとNZ人、生まれながらの英語話者ですよ、にとってスコットランド英語は半分くらいしか理解できないそうです。また、友人(NZ人)は旅行中のラスベガスで黒人にからまれた経験を持ち、「テキは英語を話しているのかどうかすら判らない程度に聞き取れなかった」と言っていた。

 それに加え、小生のごとく第二言語として英語を話すやつらもそれぞれにお国訛りがあるので、もうシッチャカメッチャカである。当然のことながら小生はNZ英語を一番聞きやすいと信じるものであるが、日本在住友人A(日本人)は仕事柄英語を使う機会があるようで、上司だかのNZ人の話すことはチンプンカンプンだという。アメリカ人なら大丈夫、というNZ英語をちょっとバカにした態度であり、大変に心外であった。なぜならNZ人曰く、

「NZの英語は英国からの植民たちの美しい発音に由来しており、今もその発音を保っているのだ。」

そこで小生ついうっかり、

「でもさ、オーストラリアの英語と似てるような気がするよね。」

と口走ってしまったからさあ大変。

「バカ言うんじゃねぇ、オージー(オーストラリアを短く言う、しばしば軽蔑の気持ちが入る。この場合当然、後者)は英国の流刑島としてスタートしたんだ。よってやつらの英語は英国の犯罪者のアホどもの英語を基礎としているから全ッ然違うに決まってんだろ。一緒にすんな、ボケッ。」

とすごい剣幕で説教された。確かに歴史上そういう一面もあるらしいけれど、今になっても似てると思うのは気のせいか。だってオーストラリアのドラマ、聞きやすいヨ。

 

 また、NZ在住友人B(これも日本人)曰く、

「日本にいる頃から英語で仕事することがやたらにあってさ、結構自信あったのにNZに来たら判んないんだよ、ここの英語。」この御仁もまた、NZの英語は訛っていると暗に匂わせる。

 

 英語発祥の英国の、ロンドンの、多少経済に余裕のある階級の話す英語を基本としてみると、どこの英語も多かれ少なかれ訛っていよう。膝下(ひざもと)のウェールズやスコットランドの英語からしてすごく違うらしいからね。「イングランド」の中~上流階級は自分のアクセントに強い誇りを持っているようで、あれッ、キウイ(NZ人)だと思って話してた、みたいなことを言ったら、飛びかかってはこないまでもすごくがっかりするか、悲しい顔をするでしょう。実は小生にもひとつふたつ失敗の経験があり、本人ではなく、「英国人を夫に持つ奥様(奥様の出身は特に秘す)」に叱られるというフシギな経験もしました。

 

 単語の発音に話を戻し、次は「オリオン」。これもまた日本人なら誰もが知っている言葉で、星座やビールでおなじみである。いずれを思い浮かべるにしろ、オリオンはオリオンに違いないと信じて疑いもなかった。というより、別の言いかたがあるなんて考えもしなかった。つづりをみれば「オリオン」としか読みようがないよねぇ。しかし、NZでは「アライアン」と発音する。ヨソの英語圏でもどうやらそうらしい。初めて聞いたときはダータのときと同じく仰天、文脈からは「オリオン」のことを言っているに相違なく、聞き返したいのをグッとこらえた。日本でオリオンが「オリオン」なのはおそらく、オリオンがそもそもギリシャに端を発しているからであって、ギリシャのことなんて何ひとつ知らないけれど、原音は「オリオン」に近いのではなかろうか。日本で外国の言葉がカタカナ語として定着している場合、その原音を日本語の感覚で拾う場合が多いような気がし、オリオンもそのひとつではないのか。それを英語読みすると「アライアン」なんだね(玉ねぎは「アナイアン」にあらず)。以前ロシア人にモスコーは国ではどう発音するのと訊いたら、「もすくわ(くわの部分、強調)」と言っていたもの。

 その点英語は頑固になんとか英語読みをしようとしている気がする。マッハ(音速のことならん)は「マック」、ミケランジェロは「マイケランジェロ」のように。しかし、どうにも読みようのないものもあるらしく、例えばchauffeur drivenの「chauffeur」、これはフランス語由来で、お抱え運転手の意。これは英語読みするのをあきらめて「ショーファー」と発音しているようだ。

 

 それではNZ目線でヨソの英語を見てみよう。NZ人は自国の英語の発音を美しいと信じているので、心の祖国・英国を別にすると、ヨソの国の英語は訛ったものとみなしている。これに関しては賛否があろう。民主主義の原則にしたがって多数を強者とすると、NZの立場は弱い。しかし、どこの国に住んでいるとしても、自分のところが正しいと思いたいのは人情ゆえ、上記はあくまでもNZから外に目を向けた場合のことである。我が日本人の友人どもにとってさえ、NZやオーストラリアの英語が訛っていると思わしめる要因は、アメリカ英語を基準とする学校教育にある気がしてならないが、これは大きすぎる問題なのでここでは割愛したい。

 

 スコットランドやジンバブエが話題になることはほとんどないといってよろしいが、アメリカ英語の評判は概して悪い。すごく違うからね、気持ちは解ります。これも過去に何度か失敗をしたことがある。何の気なしに小生、シマウマを「ズィーブラ」と言った。学生時代にシマウマは「ズィーブラ」であると教わったままを申したまでである。一体いかなる状況において大のオトナがシマウマを話題にしたのかトンと記憶にないのであるが、間違いなく2人以上のオトナの男同士でシマウマの話をしていたのである。もちろん小生がいかなる動物のことに言及しているのかは通じたのであるが、

「おい、世の中に『ゼブラ』という動物はいても『ズィーブラ』なんておかしなモンはアメリカにしかいねえんだ。一体どこで覚えたのか知らんが、NZでは『ゼブラ』と言え、それが正しい英語ってモンだ。」とまたもや説教された。

 ちなみに「トメィトォ」と習ったトマト、これはNZでは「トマァトォ」、オックスフォード英英では「トマァトォ」の発音が先に表記されているので、英国系の発音に忠実なんでしょう。例をあげればキリがないので、今回はこれでおしまいにします。

 

 住んでいるせいもあってひいきしたい気持ちがやや入り込んでいるのは自覚しているけれど、あれッ、やっぱり訛ってるのかな、と思うフシもないではない。それについては別の機会に。

 

 2024年 3月擱筆