15 ハイ・カントリーで釣り

 先日ハイ・カントリーに釣りに行ったときのことを書きたい。今までは「随筆を書く」、ということを念頭に置いて、それを実現すべく頭をヒネったのだが、今回は例えるならば若いころの原田宗典のエッセーを読むようなつもりで読まれたい。

 

 さて、ハイ・カントリーとは日本ふうにいえば里山だけれど、いわゆる「田園風景」からはほど遠く、山のなかを流れる川だと思って間違いないです。ふつうの河川は10月イッピに解禁になるところ、ハイ・カントリーは11月の第1土曜が解禁日と決まっている。これは小河川だから魚族保存のためだとばかり思っていたところ、雪代による影響が少なくなるのを待ってのことらしい。ま、そんなことはどうでもよろしい。

 小生がハイ・カントリーに行くのは11月第2週のどこかと相場が決まっており、それは土日はムスメ共の世話で時間を取れないといった事情による。もちろんむかし身軽だったころは解禁日の一番乗りを目指して金曜夜から前のめりであった。で、今年も解禁した次の週の木曜に行った。一番乗りを目指さねばならないのはなにも解禁日に限ったことではなく、よって小生は1時15分に起きて、2時にうちを出た。うちを出て5分も走るともう外は真っ暗で、前後に車なく、対向車もまばら、川に到着するまでの3時間以上の間に見たであろう動く車の数は100台に満たない。オマケに今年は途中で濃い霧がでて、制限時速の100キロなど思いもよらず、80キロで走るのがやっと。ふつうは真っ暗でもカーブの具合とかでどこを走っているのかの見当がつくんだけれど、この前はいったいどのへんを走ってるんだかさっぱり判んない。トシをとって判断も遅くなり、釣りでなかったら夜明けを待ったかもしれない。そのくらい運転しづらかったねぇ。

 

 それでも車を走らせてさえいれば目的地には着くもので、いつもの場所に一番乗りできた。明るくなるまで少し待って、いざ。

 入渓するとすぐに深い淵があって、そこで最初の1匹が釣れたこともあるけれど、そこに魚は見えず、登り始めるとその淵に流れ込むところに最初の1匹を発見。早めのザラ瀬で深さは60センチくらいか。距離はせいぜい5メートル。底にベタッと張り付いてるわけでもなさそうなので、#16のビーズヘッドを流すと、2投目できた。インジケーターを付けてはいたけれど、フライを食ったのが見えたので、インジケーターが動くより前にあわせちゃったヨ。入渓から5分で最初の1匹を仕留めたんだからこりゃ幸先いいワイと思っていたのに、そのあとなかなか釣れなくて、次は1時間以上経ってから。2匹目からは基本的に深い淵の深いところでヒラヒラしているか、やたらに流れがややこしい瀬にいるかで、インジケーターを付けているとうまくフライが沈んでくれないから、なしで、しかもスプリット・ショット(0.4g)を付けて、という仕掛け。2匹目を釣って、場所を変えるべく車に戻り、ついでにいつもは素通りするすぐ下流をなんの気なしにチェックしてみると、50メートルはあるだろう距離でヒラヒラしてる魚が見えるじゃないか。ヒラヒラしているのは採餌している証拠だから、テキはやる気マンマン、どうして素通りできようぞ。

 

 こっそり近づきテキの左後方10メートル地点にて準備完了。流れにシワはなく、変わらず水面下30センチでヒラヒラ動いている。ライズしないところをみると、周囲の状況からカゲロウのニンフを食っているに違いない。なので「本日の当たりフライ」#16を投げる。着水音に反応するし、フライを見るし、多少追うものの、食ってはこない。何度か投げるうちに警戒されて少しテキが敏感になったような気がする。ここでフライを替えないとロクなことにならないのは経験からいって間違いないので、フライを替えることにする。さて、なにに替えよう。

 いつもなら同じビーズヘッドで、色の違うワンサイズ小さいのに替えるところだけれど、あったかくなってきていて、「もしかしたら」という期待もあって、CDCイマージャー#18を付けてみた。1投目でいい場所に着水、途端にテキは反応し、少しづつフライめがけて浮き上がってくるではないか。小生の釣りの歴史の中でワン・オブ・ザ・ベストであったヨ(ストライク部門)。

 

 その後場所を変えて、いつもなら2匹くらいはいるポイントに到着。そこは非常に流れが早く、淵というほどではないにせよ深さもあり、うっかり落こっちたらイノチに関わる程度に危険な箇所である。他にもっと居心地のよい場所はいくらでもあるはずなのに、なぜかそこを好む魚がいつもいる。流れは早くても水面はそんなに荒れてもいず、魚がどの深さで、どう動いているかはそれなりに見える。流れが早いからスプリット・ショットを付けていても魚のいる水深に流すためには4~5メートル上流に打ち込まねばばらず、フライがどのへんを流れているかについてはまったくもって、経験からなる勘である。もうすぐ魚の鼻先だろうと思っていても魚が動いてはくれず、ということの繰り返しの中、たまにその勘が的中、魚がヒラリと動いたら、おらがフライを食ったもんだと決めつけてあわせる。もちろん空振りも多いが、意外と魚は掛かるモンです。そんな感じで2匹追加し、その2匹目を水に返している間に、どうやら外したフライが水に入って、根掛かりしたようだ。スプリット・ショット付けてるから仕方ないよね。深いから手を突っ込んでも取れそうになく、糸が切れてもいいやと竿をあおると、なんと竿が折れた。ティペットは6ポンドで竿の強度をはるかに下回るはずなのに、折れた。おそらく折れた箇所に傷でもあったのだろう。

 これがただ買った竿ならフトコロが痛むだけで済むんだけれど、折れた竿は自分で作ったやつなので、ハラが立つとか後悔するとかの前に、ちょっと恐慌をきたした。まず、竿を作るのは非常に面倒くさい。そして、古いタイプであるところのIM6を好んで使っているため、同じものが手に入るかどうか。おお、どうすりゃいいんだ。

 

 とはいいつつ、目の前にはまだ3~4匹ヒラヒラしてるじゃないか。そこで小生は考えた。車に戻ればビニールテープがある。それで折れた箇所をグルグル巻きにすればこの場をしのげるかもしれん。ただ、車までの往復は少なく見積もっても40分はかかるだろう。気温は20度を超え、しかもネオプレーンのゴム長をはいている。やだな。ええい、こうなったらヤケクソだ、と折れてささくれだった竿を無理やりブッ差して、念には念を入れてエイエイと押し込んで、試しに投げてみた。意外といけそうで、なんと2投目で魚が動いた。あわせると掛かったみたい。おお、なんとかなるもんだと感心したのも束の間、魚は激しく泳ぎ下り始め、そして当然の結果としてヤッツケの竿の継ぎ目が抜けた。アレヨアレヨという間に竿の先っぽだけラインを伝ってスルスルと魚に向かって泳いでいくではないか。ああ、こりゃ無理だ。いくらなんでもこの魚はあげられまい。と諦めたにも拘らず、どういったカラクリか魚と竿の先っぽの両方の取り込みに成功、この魚がこの釣行の最後にして最大であった。まだ眼前には竿さえ無事なら釣れそうな魚が残っているけれど、アホみたいなやり取りの末に1匹モノしたんだから、とある意味達観してその日は予定より少し早めに帰路についた。

 

 帰ってきてさっそく前にお世話になった釣具屋さんに連絡、ほどなくして「在庫アリ、ただし最後の1本」の返信があり、この際スペアも作っておこうと他の1本(2ピース)と合わせて竿1本半ぶん(ブランク3本)の購入予定である。

 

 ちなみに小文の釣りとはフライフィッシング、魚は今回の場合ニジマス、舞台はニュージーランドのハイ・カントリーです。河川名は特に秘す。また、ところどころに釣りをしないヒトには判らんだろう単語があるけれど、説明するとダラダラとしちゃうからしませんでした。

 

2024年 11月 擱筆

14 ゴレンジャーになりたい

 生まれた年によって、なじみのこども向けテレビ番組が違うのはいうまでもないことであるが、小生の世代の筆頭は実写ならゴレンジャー、アニメならマジンガーZである。好みの問題もあるので上記2番組に異を唱える御仁もあろうし、かくいう小生もマジンガーZよりはグレンダイザーや勇者ライディーンのほうが好きではあった。ま、細かいことは抜きにしましょう。

 

 さて、小生もとより幼稚園時代の同級生の大半は将来ゴレンジャーになりたいと思っていたのではあるまいか。これを妻に話すと、「そんなバカはオマエだけだ。ほかのみんなはもう少しマシだったはずだ」とけんもホロロ。いかなる記録も残ってはいないが、少なくとも小生はゴレンジャーになるんだ、とどこかの公文書(?)、例えば寄せ書きかなにかに書いた覚えがある。卒園アルバムに記載はないので、どこに書いたんだろうねぇ。ここで断っておくが、女子同級生に関しては一体どのような夢を持っていたのか、小生は一切知らない。キャンディ・キャンディかな?

 そんな小生も小学生になり、悲しいことにどうやらゴレンジャーにはなれないようだと気付き始めるのである。しかし、小生のその夢が熱いまま残り、しかも実際にゴレンジャーなる職業があったとしたらどうだろう。

 

 ここであらためてゴレンジャーが何物なのか、ご存知ない方に説明しておこう。ゴレンジャーとは、黒十字軍なる悪の組織から日本を守る正義の戦士である。赤、青、黄、桃、緑の5人からなる。ウィキペディアによるとゴレンジャーはなんと国連傘下の組織のようで、世界に10チームあるうちのひとつであるという。ジュネーヴに本拠地があるとか、こども向けにしては設定がスバラしくカッコいいが、鼻タレ園児はそんなことは知ったこっちゃないのである。

 

 さて、それでは話を戻して実際にゴレンジャーになるにはどうしたらいいのか。世界に10あるチームのうち、ゴレンジャーは日本国内でのみ活動するもののようであるから、今回は日本のゴレンジャーにのみ焦点を絞りたい。傭兵のごとく国境をまたいで戦うことも、国連傘下であることを考えれば可能な感じではあるけれど、話がヤヤこしくなるのでやっぱり日本国内のゴレンジャーになりたい。

 まず確率の問題から攻めていくことにしたいが、日本総人口12億5千万人のうち、代替わりをするとしても、現役で戦うのはたったの5人である。なるのが難しいとされる弁護士や医者は言うに及ばず、政治家だって衆参両議院で700人からいるんだから、それらよりもなるのははるかに難しいようだ。総理大臣なら現役はひとりだけれど、任期満了を待たないで辞めるのが多いのはご存知の通り、次から次へと新しいのが任命されるのをみれば、総理大臣になるのはゴレンジャーより簡単なんじゃなかろうか。日本にたったの5人というと、思い浮かぶのは限られた分野の伝統工芸師や宮大工、宇宙飛行士とかのレベルである。そう考えるとすごくタイヘンな職業だねえ。

 なにやらなれる気が一切しなくなってしまったけれど、小生の「ゴレンジャーになりたい」という思いが熱いままに成人し、日々の努力の甲斐もあって、それなりに賢くたくましく成長したという前提にします。

 そして、ここから書くことは大いなる仮定としての話なので、考察には大きな穴も開いていよう。そこをほじくるのはやめていただきたい。

 

 それではまず、「男子ゴレンジャー隊員求ム。20歳以上、経験問ワズ、1名」と求人が出ていたとする。経験を問わないということであれば、20歳以上の健康な男子ならば応募が可能である。詮衡する側とすれば自衛隊員や消防士らへんの応募を期待したいところであろうが、ここも強引に小生が彼らツワモノどもに比肩する実力があることにする。採用試験は筆記、体力測定等で、それらに合格すると恐らくは面接、本人はいうに及ばず、家族友人知人の犯罪歴病歴、思想宗教なども同時にコッソリ調査され、問題が見当たらないのでめでたく小生は狭き門を通過した。

 さあ、ここからが大変である。ゴレンジャーの活躍する舞台においては、爆発物や火器に関する専門知識が絶対に必要である。そのほか薬品、医療等の知識も欠かせないだろう。また、隊員の乗るものは多彩を極め、免許がいるのかどうか定かでないが、少なくとも操縦できるようにならなくてはならぬ。それぞれのマシンは主に誰が操縦する、というふうに設定がなされているが、その主操縦士がなんらかの事情で操縦できない場合を考えれば、やはりすべてのマシンの操縦に精通している必要があろう。よくは知らないけれど、戦闘機を操縦する自衛隊員はヘリコプターの操縦はしないだろうし、戦車も専門外であろう。そこへいくとゴレンジャーの場合、飛行するマシンが2種、カニのような手を持つ戦車が1種、戦場には似つかわしくないと思われる気球が1種、さらには装備満載の自動2輪車が3台もある。そのうち2台にはサイドカーが付いているから、さらに厄介である。通常の飛行機やヘリコプターのコックピットを思えば判る通り、やたらにスイッチやボタンがある。バリブルーンやバリタンクに関してはそれほどでもないようにみえるが、うっかりボタン操作を誤ったがゆえに、隣にいたキレンジャー先輩が非常事態よろしくイスもろとも空高く飛んでいったりしないよう、そこは気合を入れて覚えねばなるまい。小生が園児であった頃と比べれば、現代のテクノロジーの進歩はみなさんの知るところ、もしかすると今のマシンは改良されるか、代が更新されるかで操縦も簡単になっていることと思いたいが、それでも大変であることは間違いなかろう。自動2輪に関しては、小生はその昔免許を持っていたことでもあり(NZ移住後に更新できず失効)、運転できるとは思うが、それはあくまでも舗装された道路に限られる。ゴレンジャーが悪と戦うのはなぜか採石場と相場が決まっているため、やはり練習は必要だ。しかもゴレンジャーのマシンは形状から見るとどちらかといえば舗装道路により適しているようにも見えるため、乗りこなすのはかなり難しいんじゃなかろうか。

 小生を採用してくださった江戸川権八最高指揮官、共に訓練し、汗を流した先輩隊員たちとの間に信頼関係も生まれ、小生は晴れて新米隊員として実際の戦場へ赴くこととなる。

 

 いや待て待て、採用試験を受けるにあたり、条件を考慮しなきゃいけなかった。

 敵が現れていない間は自衛隊員や消防士と同じく訓練やマシンの整備に時間を費やすのであろうからこれはいいとして、問題は現場勤務のときである。実際の現場の危険レベルはかなり高い。いつも死と隣り合わせであるといっても言い過ぎにはなるまい。国連軍のシニアレベルの年収は1200万エン程度らしいが、たぶん、それよりは貰わないと危険度の度合からいって割に合うまい。新米隊員であることを考慮してなお、1000万エンくらいはほしい。しかもそれは手取りでの話であって、仮にそこから保険料(死亡保険)を取られるとすると、それはおそらくスゴイ金額であろう。明日殉職するかもしれない隊員が保険に加入できるとしてのことであり、保険に入れない可能性も十分にある。すると女房子供のいる小生の場合、殉職したあとの家族が心配である。名誉でメシは食ってはいけない。健康保険も心配だ。この仕事にケガは付きもの、やはり掛け金は相当な額になるのではあるまいか。まぁ年金はいいとしても、これらを差し引かれてなお懐に1000万エンということでなければ、手取りが300万エンなどという悲惨なことになりかねない。それともここは単純に国連がどうにかしてくれるのかな?

 休日も気になるところだ。救急救命士と同様、休みの日であっても呼び出しがあれば現場に駆けつけねばなるまい。5人しかいないんだから1人欠けてもマズいわけで、小生がハワイで昼寝している間にテキが攻めてきたりすると、絶対に間に合わない。他の隊員の場合も然り、例えばアカレンジャー先輩の休暇中に敵が襲ってきた。我々4人はすぐ出動したが、先輩に声をかけるべきか否か。なにしろ先輩は地元におられることは間違いないが、この休暇中に彼女にプロポーズすると言ってはいなかったか。敵はいつもより手強そうで、4人ではキビしい、ああ、どうしよう。でもやっぱり、どうしても休まなきゃいけない日ってあるよね。

 もうひとつ小生を悩ませる問題は、「正義の味方は身分を隠す」ということである。これについての記憶はアイマイなんだけれど、もし身分を隠す必要がある場合、小生は黙っていられるかしら。身分を公にすることで自分はもちろん、家族にも危険が及ぶ可能性が高まるだろうことは想像できるけれど、できれば少しくらいはチヤホヤされたい。う~ん、せっかく採用にこぎつけたのに、ちょっとむずかしくなってきたゾ。

 

 ゴレンジャーに欠員がでたからこそ求人が出たわけで、それは定年なのか、病気なのか、殉職なのか。殉職の可能性は極めて高い。正義のため、また夢をかなえるというふたつの大義のためにここまでやってきて、やっぱりイノチには代えられないナ、というスゴイ結論。

 

2022年 5月 擱筆

13 どうやって書く?

 「戦後民主主義」のもと、さらには日教組がハバを利かせていた時代に小生は育ったようである。恥しながらそんなことは少しも知らずにオトナとなり、しかも気付いたのはここ10年のうちである。おバカな小生がそれに気付いたのは故高島俊男先生の『お言葉ですが…』による。生まれたときにはすでにそれがあたりまえで、周りのオトナにとっても意識しないようなことであったから誰も教えてくれなかったのかな?もうひとつ先生が教えてくださったのは、戦後の国語改革のことである。

 

 覚えている限り、通学した小中高で国語改革についてはひとことも言及がなかったのではあるまいか。どこでお目にかかったか戦中、戦前の漢字がややこしい字体であったのは承知していたにもかかわらず、どうして漢字の書き方が変わったのか一切教えてもらった記憶がない。これまで小文に書いた覚えのあるなかでいうと、たとえば学校の漢字のテストで「欠陥」を「缺陥」と書いたら不正解だったのではあるまいか。そもそも「缺」の字はいかなる教科書にものっていないはずで、したがって習わないから知りようもない。罐詰の「罐」然り。「座る」と書いてなんの疑いも持たなかったところ、高島先生が「座る」と書くやつの文章など読むに値せずとおっしゃっているのを拝読に及び(先生曰く『坐る』が正しい)、それでは、と小生の書く文章には覚えている限り先生の教えに沿って書く努力をしているけれど、頼りないとはこのことである。再度申し上げるが、学生時代に習わないことには、我々学生にとっては知りようもない。しかも、学校で教わることに間違いがあろうなどという疑念を一切持たずにオトナになってしまった。小生と世代を同じくするやつらはみな似たようなモンじゃないかと推察する。小生のようにオトナになってから「自分は間違っていたらしい」とあわてて表記を変えるのもいれば、知りつつ表記を変えないのもひとつの見識、知らないまま現在に至るのは上記の理由で仕方のないこと。どの態度が正解なのかという議論はこの際成り立たない。小生自身は文章を書く以上はなるべく表記を正しい方向へもっていきたいのであるが、そもそもなにが正しくてなにが正しくないのかの基礎の部分が缺落しているのだから、心細いったらない。ただし、高島先生もすべてを正字で書け、とおっしゃっているのではなくて、どうしても日本語の生理に反していると思う部分についてのみ言及されているので、小生としてはますますこんぐらがってややこしい。

 

 正字正かなの文章は読みづらい。少なくとも小生にとっては読みづらかった。小生がまだ日本にいたころは本といえば本屋さんで買うもので、手持ちの本を読みつくすと本屋さんに行ったものである。いつも読む作家の新刊が出てはいまいかとあちこち散見するに、阿川弘之・佐和子共著の『蛙の子は蛙の子』が目に入り、手に取ってパラパラしてみた。記憶では阿川弘之先生のお書きになった部分は歴史的仮名遣いで書かれていて、それなりに若かった小生はその時点では歴史的仮名遣いで書かれた本になじみがなく、「あッ、こりゃ手に負えんナ。」と降参して購入しなかった。正字正かなと歴史的仮名遣いとは同じものではないけれど、新参者には読みづらいという点で似たようなものである。以後阿川先生の本に頻繁に接するようになり、原稿はすべて歴史的仮名遣いで一貫したはずなのに、今ふつうに手に入る文庫版の大部分は現代かな遣いなのが残念だと思う程度には慣れてきた(うちにある文藝春秋巻頭随筆『葭の髄から』の文庫版は歴史的仮名遣い)。

 丸谷才一や内田百閒も歴史的仮名遣いで一貫したはずで、ためしに手元にあるものを見てみると、丸谷才一のは文春文庫、朝日文庫、文藝春秋すべて歴史的仮名遣い、百閒は新潮文庫とちくま文庫は新かなに書きあらためてあり、中公文庫はままであった。

 

 こうして、内容が好きで読みたいからしかたなく現在と違う表記で書かれたものをふつうに読むようになった。どうしても思うのは、学生時代にちゃんと教えてくれないまでも、せめて基本の漢字だけ昔はこう書いた、あと「づ」「ゐ」「ひ」「ゑ」などの使い方くらいは教えておいてほしかった。それらはむかしの日本語ではあっても、間違っている日本語などでは断じてなく、現代国語の授業で鷗外や漱石を扱う際にでもちょこッと我らの脳ミソの片隅に残るようにしてくれさえすればよかったのである。

 

 そこでふと考えるのは、「戦前戦中のものはすべて悪」という観点に立つ日教組や進歩的なお考えをお持ちのみなさんのことである。遺憾なことにみなさんは教育の分野において影響力を持っておられたので(現在のことは知らない)、戦後のどさくさにいろいろなことにチョッカイを出し、小生が学校に上がる昭和50年代でもまだその御威光を顕しておられたようである。漢字表記やかな遣いもそうであるが、ごぞんじの国歌斉唱、国旗掲揚の問題や先の戦争に関する教育もそうである。「教育」っつったってアナタ、大東亜戦争に関しては学校でほとんど教えてくれなかったように思うのは小生だけか。わずかに「はだしのゲン」をテレビで見せてもらったくらいで、「戦争は悲しいものなのヨ~、東條は悪いひとネ~」的教育ではなかったか。どういった経緯を持って開戦に至り、どんなことがどういうふうに起こって、終戦を迎えたか。事実を淡々と教えてくれればそれで事足りるし、興味があればあとは個人で調べもしよう。軍人軍属で230万人からなる死者を出し、うち広義で70%は餓死というようなビックリするような事実も、小生が知ったのは意外と最近である。情報元は故半藤一利先生であるから間違いはあるまい。こういった些末なことも、「漢倭奴国王」なんかより大切ではないかい?

 このへんのことを書いていると段々ハラが立ってきて、だれかを頭ごなしにバカ呼ばわりしたくなるのでここで少しはなしの方向性を変える努力をしたい。つまるところ、左寄りの教育を10年以上注入され続けると、本人の知らないうちに左寄りの人間に育つということである。ちなみに小生は若いころは、「国旗なんて掲揚しようがすまいがどっちだっていいじゃん」と考えていた進歩的(?)大バカ者であった。

 

 さて、国語のはなしを少し書いたので、ついでに辞書について触れたい。おはなしするのも恥しいことですが、小生は上記の高島先生の本を読むまで、「国語辞典に間違いはない」と信じて疑わなかったものである。どの国語辞典が、というわけではなくて、すべてが対象である。そもそも親や学校の先生には、わからない言葉があったら辞書を引け、といわれていたし、辞書を信じてはいかんと教えてはくれなかったようである。高島先生曰く、辞書は間違える、ウソを教える、編者として名前の出ている学者は通常その編輯に携わっていない、用例のない言葉が立項されている、広辞苑は少しも特別ではない、その他その他。これはもう、生まれてこのかた培ってきた常識を根底から覆しました。「国語」といって習ってきたものはすなわち「日本語」に他ならず、それは文化の根底に関わる問題であるから、学校ではほかの教科とは一線を画してもう一歩踏み込んでほしかったナ。国語と近現代史は大切であるというあたりまえのことを、海外にいるせいもあるのかしみじみと噛みしめる。

 

 最後に、なにがいいたかったかというと、これは小生の言い訳である。今まで何本かの随筆を公にしており、読者数は少ないながらも、書く以上は正しい日本語を使って書きたい。自分の文章にはおそらく正しい部分と正しくない部分が混在していて、その分かえって見苦しいのではないかと怯えている。しかし、たくさんではないにしろ、この字はこう書くのが正しい、この言葉はこう表現されるべきである、というようなことを知ってしまった以上、その部分に関してだけは従来の誤りを正したいと思うのである。基礎がまるでなっていないので、無謀だし先も見えないのであるが、今後もこの方針をもって書き続ける所存である。

 

2024年 9月 擱筆

12 病院食 2

 それでは、生の果物ならば問題はないのか。実は、これまた問題なのである。たとえばNZの代名詞、キウイフルーツ(以下キウイと呼び捨て)がでてきたとする。日本で売られているキウイは食べごろか、もしくはその一歩手前といったところだろう。少なくとも自分の経験ではそうである。NZの病院ででてくるキウイは、1週間後に食べごろになりますといったカチカチ、もしくは2日前に食べごろでしたというベロベロのようなものが多い。キウイのでてくる頻度は高いからうまくやりくりできるはずなのに、カチカチかベロベロ。ベロベロのほうは少しお酒っぽいにおいがするけれど、食感を気にしなければ甘くておいしい。カチカチは、無理です。ベロがビリビリになって、そのあとのごはんが食えません。ちなみにキウイは皮ごとゴロッとお皿にのってでてきます。

 NZで売られている果物は早めに収穫したカチカチ系が多く、食べるタイミングは自分たちで判断する。酸っぱくてもカリカリが好きなのもいれば、甘くなるのを待って食べるのもいる。キウイに関していえば、皮ごとかじる気合の入った者もいる。キウイだけでこれだけのドラマがあるのだから、パイナップルやあんずがでてきたときのことも、ご想像していただけるものと思う。

 

それではついにNZの夜の病院食へと話を進めましょう。

 

 クライストチャーチ・ウーマンズ・ホスピタル

ある日 ひき肉、豆、にんじん、いんげんの茶色いドロドロ、温野菜(にんじん、じゃがいも)、ゆできゃべつ、ゼリー、アイスクリーム

 

またある日 ビーフの茶色いドロドロ、温野菜(ブロッコリー、にんじん)、長粒米少々、チーズケーキ、ホイップクリーム

 

別の日 ポークの茶色いドロドロ、温野菜(グリーンピース、かぼちゃ)、マッシュポテト、ゼリー、アイスクリーム

 

さらに別の日 ローストビーフ、ゆできゃべつ、マッシュポテト、ローストポテト1かけ、ローストかぼちゃ1かけ、コーンポタージュ、得体の知れないタピオカ入りのジュース

 

 オークランド・シティ・ホスピタル

ポークと賽の目のじゃがいもの薄茶色いドロドロ、温野菜(いんげん、コーン)、マイロ(ミロのことね)、アイスクリーム

 

 これは悪意があってわざわざ「茶色いドロドロ」の日ばかりを書き出したのではない。オークランドに関しては一日分の献立しか手元に記録として残っていないが、クライストチャーチと比べてみれば一目瞭然、茶色いドロドロに野菜が付いているのが基本であること、疑いがない。肉の種類は日によって変化があり、茶色いソースはグレービーであったりカレーの風味が付いていたりと多少の違いはあるにせよ、視覚的には毎日ほぼ同じである。NZ人が中華、タイ料理、スブラキ等の舶来ものを食べるようになって久しいが、小生の16年に及ぶ観察によると、まだまだ味覚の上ではかなり保守的である。よって、宗教上の問題を抜きにして考えれば、上記のような献立なら多くの入院患者が好き嫌いをいわずに食べるのだろう。

 もうひとつ特記すべきなのは、NZ人は甘いものが大好きなので、必ずデザートが付いていることである。クライストチャーチでは二種類出てくることもめずらしくない。アイスクリームはバニラ味の小さいパック詰めで、機内食としてでてくるのと大差ない。フシギなのはゼリーである。なかに果物が入っているとかではなく、やたらに固いブリブリしたゼリーである。日によって色が違うような気がするものの、ゼリーはゼリーである。中に何も入っていないんだから、病院がだす食事の一部でありながら、カラダにいいものは何ひとつ入っていないと思われる。

 NZのスーパーで1ドル以下で買えるものは少ないが、そのなかにゼリーの素がある。小生の頼りない記憶によれば、90セントくらいである。ひと箱で500ミリくらい作れるのだが、お湯で溶いて冷やすだけ。容量を守って作ると日本のゼリーよりずいぶん固い。すごく赤いのはイチゴ味、オレンジ色ならオレンジ、真っ青のやつはブルーベリーであったか。カキ氷のシロップと同じく、イチゴ味といえばこの味、という味である。果汁など入っていると期待するほうが間違っている。たぶん病院のゼリーはこれである。約束されたおいしさである。よほど具合が悪くて食欲がなくても、これだけは食べるというヒトだって少なからずいそうである。

 毎日同じようなものがでてくるにもかかわらず、日が経つにつれごはんを待っている自分がいるとは妻の弁で、その点小生とまったく同じである。

 

 さて、これは病院のごはんというわけではないんだけれど、我々がオークランドに行ったときの宿泊施設についても少しふれておきたい。ワケあって2人目のムスメはオークランド(北島)で出産することになったのであるが(地元はクライストチャーチ、南島)、今日決まって明日の朝飛ぶという夜討ち朝駆け、次の日の飛行機のチケット、オークランドの空港から病院までのタクシー、病院への連絡、宿泊する場所についてはすべてクライストチャーチの病院で手配してくれた。我々が泊まったのは、ご存知のひともあろうが、その名を「ロナルド・マクドナルド・ハウス(以下RMH)」という。経営は寄付からなり、宿泊者は宿泊費を払う必要がない。が、タダならおれも泊まりたいナといって泊まれる施設ではなく、こどもが長期入院しているとか、こどもの手術のためにオークランドに宿泊する必要があるといった人たちのための宿泊施設である。恥しながら小生は自分の身に降りかかるまでその存在さえ知らなかった。クライストチャーチの病院には「どれだけいても大丈夫、追い出されたりしないから心配しないように」と申し渡されており、都合我々は6泊しました。ちなみに飛行機代、自宅から空港、空港から病院までのタクシーもタダでした。

 

 朝一番の飛行機でオークランドに来た南島のイナカモノの我々、オドオドと玄関をくぐる。さわやかなる笑顔ですごく親切なお嬢さんに施設についてアレコレ教えていただき、なんと共同キッチンにある冷蔵庫内のものは(個人のものは名前を書いて、間違いの起こらぬよう別の冷蔵庫に保存)すべて飲食自由だそうだ。ちょっと込み入った料理を作るための食材だってあるように見える。これが一度目の仰天。部屋に入って二度目の仰天。広さは余裕で50平米超、キッチンがあって、シャワーがあって、洗濯機もある。ベッドは全部で3つ、これが似たような立地のホテルの場合、1泊300ドルでは泊まれまい。

 ここでは定期的にボランティアの方々が夕食を作って、宿泊者に振る舞ってくれる。小生共のときは「NZ Blood」というところから10人体制でおいでになった。NZ BloodはNZ国内の血液を統括する政府の機関である。午後早くから仕込みを開始し、メニューはラザニア、サラダ2種、ケーキ、アイスクリーム等のデザートと多彩だ。ひとり分ずつ取り分けて定量でおしまいということではなく、好きなものを好きなだけ食えるという食べ放題方式であり、料理の並ぶ向こう側には作ってくださった面々がおられ、取り分けてもくださる。「小生おなかペコペコなので多めにちょうだい」、「おかわりほしい」などと言ってもイヤな顔をするどころかほほえみを絶やさず、「どうしてここにいるのか」などというプライバシーに関わることなど一切訊いてこない。だからといって無口なわけでもなく、世間話ならいくらでもオーケー、終わってみれば楽しい夜ごはんのひとときである。病院に行ったりRMHに帰って来たりの繰り返しで忙しく、ごはんを作る時間などあるものではなくテイクアウェイの中華などの毎日で、オークランド滞在中で唯一しっかりしたものが食え、感謝に耐えない。残念ながら小生の血液は献血するに値しないため、恩を返すことができないでいるけれど、RMHチャリティーには少しずつ寄付をするように心掛けている。

 

 さて病院に話を戻しますが、時間になると向こうからやってくるごはんのほかに、腹が空いたらこちらから出向いていつでも食えるようになっているものもある。これは一般病棟のハナシではなくて、分娩室のあるフロアに限る。いろいろある中からよりどりみどりというほどではないにせよ、休憩室のようなところにちょっとした飲みもの、食パンとバター、ジャムなど、それにパック詰めのサンドイッチが常時用意してある。我々はそれを知らなかったのであるが、妻が出産して一息ついたころミッドワイフさん(助産婦)が「お腹減ってない?」と訊いてくれた。朝の4時かそこらで、持ってきた自前のビスケットでもくれるのかしらンと思っていたら、例のところからすごい量持ってきてくれた。どこそこにあるからいくらでも食え、ということである。

 

 これは自分たちの経験に基づく狭い世界でのことではあるけれど、妻が入院する以前から外国の病院食に興味はあったので、忘れないうちにここに書きとめておく次第である。

 

2022年 8月 擱筆

11 病院食 1

 諸賢は入院したことがありますか。

 小生は、ある。妻も、ある。実はうちのムスメ共も出生後にグズグズと3週間ほど病院に留まっておったので、経験済みであるといえよう。しかし、ムスメ共のことを書くと長くなるので、今回は割愛。

 

 小生は19、20の若いころになにやら原因不明のややこしい病気になり、入院するハメと相成った。具合がベラボウに悪く、40度を余裕で超える熱のため痙攣が起こる毎日。風邪ではなさそうだけれど、なんだか判らんので近所の病院で血液を採取、数日後に結果を聞きにフラフラしながら行ってみると、先生が、

 「ただごとじゃないから市民病院(横浜市民病院)に行きなさい。そこですぐに精密検査をすること。今すぐ紹介状を書きます。」

 しかたないので日を待たずして市民病院に行き、もう一回血液検査、胸部レントゲンその他、で、検査しに行ったその日に担当の先生が、

 「キミ、今日おうちに帰っちゃダメだよ。」

 

 病名が判明して投薬が始まるまで入院してからひと月ほどかかったから、計ふた月ほど40度を超える熱を出し続けていたことになる。すると、ヒトは強くできているゆえ、慣れる。毎朝看護婦さん(当時は「看護婦さん」)が検温するたび40度を超えているのに、元気を取り戻しつつある小生、なにやら食欲も出てきた。入院したてのころは何にも食いたくないから、食えるかもしれないプリンだのアイスクリームだの実体のないものばかりが食膳にのっていたのに、そんなものさえ食えなかった。

 

 さあ、ついに今回のテーマに辿り着きました。それは病院食。

 病院での食事など期待できないというのが一般的な理解だろう。病気によって食事の内容が違うのはご存知の通り、例えば腎臓に故障のある人の食事は低塩か無塩、糖尿病の人は甘いものナシ、カロリー控えめというようなやつです。小生は入院中の食事に一切の制限がなかったので、確か「通常食」というような分類の食事が配膳されていた。病院食とはいえ一汁一菜よりは豪華であったように記憶している。肉も魚もでてくる。始めのうちは「まぁまぁ食える」程度に思っていた、小生が愛してやまない脂っこいものなんて期待できない病院食も、日が経つにつれ食事の時間そのものが、退屈な入院生活のなかの最高のイベントのような位置に高まっていく。すると、何がでてこようが、うまいと感じ始める。お手上げだったのは小生の人生における最大の敵のひとつである「カキフライ」がでてきたあの一日だけである。だいたい病院でカキフライをだす必要があるのか。好きなやつはすごく好きなようだが、嫌いなやつだっていっぱいいるように思う。献立を考える段階で、カキフライは病院食としては冒険に過ぎるという意見はなかったのか。万一食中毒が起きたらどうするおつもりか。小生は目の前にカキフライがある限り、「今回こそ敵を克服するなり」と必ず1個は食ってみるのであるが、残念なことに現在に至るまで敗戦に次ぐ敗戦である。

 閑話休題、食事は一日に三回しかない。「三回もあるじゃないか」と言うなかれ。食っている時間なんて一日合計でせいぜい60分。朝昼なんて「アッ」という間に終わってしまうから、夜ごはんなど24時間ぶりの大イベントなのである。

 

 元気が出てくると食欲も上がり、病院食だけじゃ足りない、もっと食いたい。通しで3ヶ月チョイの入院生活も後半になると、ヒマだからコッソリ抜け出してジムでトレーニングなどをし、帰りにからあげなど買って晩ごはんを待つというようなことをしていた。トレーニングのせいで病気の治りが遅く、食いすぎのせいで太った。トレーニングがバレて先生および看護婦さんの監視の目が厳しくなり、あまり外に出られない。でも食欲はあるから病院食だけじゃなくてもっと食いたい。そこは家族や友人に頼めばお菓子でも惣菜でも持ってきてもらえるので問題はないのであるが、6人部屋の同室に糖尿病のおじさんがおられ、これ見よがしに食っていたつもりは毛頭ないが、「何でも食えていいねぇぇ」と一度言われたことがあり、大変悪いことをしたと今更ながらに思う。

 

 さて、ここからはNZの病院食である。小生の経験からなる上記はアイマイな記憶を元に書いたのであるが、NZに関しては記憶も新しく、記録としての写真も残っている。入院したのは小生ではなく、妻である。ところは「クライストチャーチ・ウーマンズ・ホスピタル」と「オークランド・シティ・ホスピタル」、ともに出産に関する入院である。

 まず、NZの病院では朝の10時と午後の3時に職人の休憩のような時間がやってくる。基本ベッドにいる患者に休憩もないもんだけれど、大抵やたらに元気なおっかさん(としかいいようがない)が、

 「さあさあお嬢さん、コーヒーにする、紅茶、それともマイロ~?(ミロは英語でマイロ)」

 と部屋に入ってくる。コーヒー、紅茶に関しては牛乳、砂糖はどうするかなど注文を細かく訊いてくれ、部屋にいる患者のぶんを作り終わると「またね~」と手を振りながらとなりの部屋へ入っていく。妻によると、コーヒーも紅茶も薄いが、ミロについては「ミロの風味のあるお湯」くらい薄いらしい。ちなみに妻のもとでいくらニコニコしていても、小生の分は作ってはくれない。

 

 病院食に関して、患者によって献立が違うのは日本、NZ同じに決まっているが、日本ではあまり意識しないもの(存在はするだろうが)、即ち宗教により食ってはならないものを厳密に守らなくてはならない。ブタも牛もかなりの頻度で配膳されていたようなので、作る側はさぞかし大変だろうとお察しする。妻はアレルギーも特定の宗教も持たないので、小生と同じく通常食である。

 

 まず朝食の献立であるが、トースト、コーンフレーク、ジュース、果物というのが毎日続く。これは「コンチネンタル・ブレックファースト」と呼ばれる、火を使わないで作ることのできる伝統ある朝食である。家庭でも食われ、ホテルやモーテルでも供される正しい献立である。間違いの起こりようがないにもかかわらず、妻によると、「てんでなってない」。まず、パンは「トーストしてから30分経っている」らしきふにゃふにゃ、シケシケのが毎日続くらしく、トーストしたてのホカホカが出てきた試しは一度もないらしい。まぁこれは作る側の事情を考えればしかたのないことかもしれないけれど、そういうことならば焼かないパンをだしてくれたほうがおいしいんじゃないかと思わないでもない。次はコーンフレークにかける牛乳、これがまたなかなかにむずかしいシロモノである。日本の病院で牛乳がでてくるなら、きっとパック詰めされた一人分のものであろう。小生のオボロな記憶では確かにそうであった。しかし、NZでは蓋をしてはあるものの、傾けるとこぼれてしまうようなプラスチックの容器になみなみと入っており、まず蓋を開ける際にこぼれてしまうおそれがある。さらに容器のギリギリまで入っているためにコーンフレークにかける際にもう一度緊張の瞬間がやってくる。妻は3度目ころから技術をモノしたらしいが、うっかりすると朝一番で惨事が起こる。2~3リットル入りの牛乳を小分けすればコストを節約できるのかもしれないが、プラスチックの容器を一度の使用で廃棄しているのならば、コストか環境意識かのむずかしい選択を迫られているはずである。

 

 次は果物、これがまたおもしろい。果物は日によってリンゴであったり、キウイであったりするが、その前に、「生か罐詰か」という御下問がある。日本人の感覚で申すならば、罐詰の果物は、果物であって果物でない。おいしいけれど甘いし、なにより過熱してあるから肝心の栄養素が低下してしまっている。しかしNZでは罐詰であっても断固「果物」として扱う意気込みで、そっちがそうならこっちはコーンフレークにかけて豪華な朝食をいただきますゾ。妻は妊娠中毒症で一時的に糖尿病の症状が出ていたにもかかわらず、罐詰の果物に制限はないのであった。ホンモノの果物もモノによっては果糖の量が強烈であるはずなのに、「どっちもいくら食べてもよろしい」という助産婦さん(NZには「ミッドワイフ」といって、妊婦の面倒を見てくれる専門の達人がいる)のお墨付きである。

 

この話つづく

 

2022年 8月 擱筆

10 電車

 ニュージーランドは南島で暮らしていると、電車に乗る機会がまったくない。南島を走る電車は、正確には電化されていないからディーゼルなんだけれど、観光用の長距離列車しかなくて、日常の用には一切不向きである。うちの近所にも駅があり、その長距離列車「トランズ・アルパイン」クライストチャーチ発グレイマウス行きが毎朝やってくる。夕方にももう一回来て、要はグレイマウスに行ったのが帰って来るわけで、一日一往復、あとはたまに貨物列車が通過していくのみである。

 住んでいれば、本数の少ない列車、貨物といえども見かけはするが、見れば「おッ」と思う程度に珍しい。珍しいからこそ、たまたま通りかかった踏切が閉まってたりすると、非常に腹立たしい。

 たまにオークランドへ行けば、わざわざ余計に時間のかかる電車(オークランドは電化されている)に乗ったりもするけれど、NZで電車に乗る機会といったらそれくらいである。

 

 とここまで書いて今更ながら、小生は電車が好きではあるが、いわゆる「なになに鉄」というほどではない。いまでは日本に行けば電車に乗るのが楽しくて仕方ないし、我々が日本に行くときは「JRパス」なる主に外人さんが日本を旅行する際に携行するJR乗り放題チケットを持っているから、いくら乗っても均一料金で、乗れば乗るほど儲かった気がしないでもない。「JRパス」は話すと長いが、簡単にいうと400NZドル弱(2019年購入時)で7日間「のぞみ」「みずほ」を除くすべての列車に乗れる。よって我々は日本滞在中の任意の7日間を地元でないどこかへの旅行にあてるようにしていて、例えば前回の場合でいうと、新横浜で新幹線に乗った瞬間に7日間の期限がスタート、最初の日は裾野や伊東らへんをウロウロしたから新幹線と「踊り子」に乗り、次の日に京都へ(新幹線)、京都滞在中に神戸へ日帰り(新幹線)、横浜に戻って東京で友だちに会うのにもわざわざ新幹線を利用、なにか御大尽になった気持ちになれる。計算してみるとそんなにトクしてないけれど、気分は大変によろしい。特に新横浜から東京まで新幹線で行くなど、その魔法のチケットを持っていなければ思いもよらない。

 

 さて、小生が学校を出て最初の職場は新橋にあった。自宅から横浜駅までは原付、そこから東海道線で約25分。これは毎日週5日、同じ時間、同じ電車に乗るわけで、朝の通勤ラッシュの時間ではなかったから坐れるときもあったけれど、その頃はなにせ毎日のことゆえ、楽しんで電車に乗るということからは程遠かった。電車を待つ間に本を読み、電車に乗ってからも本を読み、窓からの景色など一切見ない。そうしているうちに新橋との縁が切れた。

 次とその次の職場には原付が一番効率がよいので、雨が降れば車を使ったけれど、通勤で電車に乗ることはなくなったので、めっきりその機会が減った。たまに乗れば、そういうときは大抵いまのヨメとデート中かなにかで、小生の関心は当時すばらしくかわいかったヨメに向いていて、電車どころではない。というより、当時は「電車が好き」という意識がなかったように思う。これはNZに来て、失ってからあらためて芽生えた感情ではなかろうか。あらためて、というのは、こどもの頃小生は電車が好きであったらしい。

 どういうことかというに小生まだ若かりし(?)3~4歳頃のこと、母に連れられて保健所に予防接種に行った。オボロな記憶と母の繰り返しの証言とによると、注射の前に母が「泣かなかったら帰りに電車に乗るか、アイスを買ってやる」という提案をした。小生は注射などに負けない強靭な肉体と精神を持っていたので半べそすらかかず、ごほうびは電車を選んだ。電車に乗るとうちまでの行程が少し遠回りになるものの、ひと駅しか乗ることができない。アイスか電車かで、電車を選んだあたり、小生はその頃「乗り鉄」であったに違いあるまい。

 

 今あらためて電車に乗るのが楽しいけれど、純粋に「電車に乗るヨロコビ」を味わうというよりは、他のことが楽しい。楽しみの一つは当然のことながら景色を見ることで、たとえば、地元で電車に乗る場合、どの景色も懐しいから食い入るように見る。特に横浜-石川町間(JR根岸線)は左側にみなとみらいが見えるといってはそちらへ行ってランドマークタワーを見上げ、野毛や伊勢佐木町商店街を見に右側へ移り、横浜スタジアムは左側と忙しく動き回り、たぶん、ハタから見たら変人だろう。それと並行しておもしろいのは、乗客の観察である。あれこれ忙しい自分を除くと、乗客のほぼ全員がケイタイ電話をいじっている。眼光鋭く一心不乱、老いも若きも、男も女もみんなコツコツと画面を叩いている。小生のようにタドタドしい操作をするものとてなく、全員揃ってケイタイ初段以上の腕前である。小生は絶対に日本のオフィスで仕事ができないだろうと無言のうちに教えられる。同時に中吊り広告にはその瞬間の日本の縮図が垣間見えるため、チェックを怠ってはならない。忙しいことこの上もない。

 

 また別の日、今度は東京へ向かう東海道線の車内でのこと。平日の夕方のことでもあり、車内を動き回ることはできなかったけれど、そのかわり人が多いということは、観察の対象も多いということである。あちこち見ているうちに川崎へ到着、そこで乗ってきた「むむッ、こやつデキる」という感じのビジネスマンが小生のとなりの吊り革につかまった。年はおそらく30チョイ、彼はケイタイを始めることなく、A4の書類に目を通し始めた。どんな仕事のヒトかな~、と横目でどんな書類かを覗き見するに、その書類はなんと「ニュージーランド永住権申請のしかた」のようなものであった。

 その昔「真珠夫人」が映画化された頃(昭和2年/1927年)、志賀直哉がその映画の話をしているひとたちに鉢合わせをした。それらの話を聞くうち、ふと「菊池寛は私の友人ですよ」と言ってみたい誘惑にかられたという話を読んだことがある。文豪は当時、現在の小生より少し若かったようであるが、抑えに抑えた表現で知られ、すでに確固たる地位を築いておられた文豪でさえそのような誘惑にかられるのだから、凡人の小生が隣にいる彼に先輩風のひとつも吹かせたくなるのは自然の理である。けれども同時にそれは狂気の沙汰であることも承知しており、もちろん未遂に終わったものの、彼がページをめくると都市の紹介、文化の説明、ああ、アレも知ってる、コレも知ってるゥ。彼は次の品川で降りて行き、小生はなにか気が抜けてしまった。いやあ、電車は楽しいねぇ。

 

 上記は実際に電車に乗った経験に基づくものだけれど、もうひとつ電車の楽しみといえば、内田百閒、阿川弘之、宮脇俊三である。実は、オトナになってから電車が楽しいと思うようになったのは、この三人によるところが大きいように思う。三者三様、みなそれぞれに頭抜けた変人で、却ってスガスガしい。小生には真似をする気も起きず、またその情熱もないのであるが、読むぶんには非常に楽しい。百閒先生のは時代も違うし読んで疑似体験ができるという内容ではないけれど、小生の知らない時代のことを知る楽しみに加え、ほかの誰にも似ていない文章もいい。いつも何かについて文句を言い、常に不機嫌、にもかかわらず、通して読めば「やっぱり百閒先生は楽しいねぇ」と思うんだからすごい技術である。阿川先生もこれまたいろいろについて腹を立てておられるが、その相手がこれまた小生がよく読む作家であったりするので、そのへんの関わりも楽しいし、先生の電車好きは子供の電車好きの延長上にあるらしき気配が漂うので、小生の経験と合致し親近感がある。電車のほかに飛行機、船にもよく乗られたので、それについてもまた電車とは少し趣を異にする楽しさがある。宮脇先生のはまさに疑似体験に最適といえよう。やることがいつも途方もないので読んでいて疲れることがあるけれど、それは読むのに疲れるということではなくて、気の遠くなるようなことをする先生を思って疲れるのである。南米の登山鉄道に乗ったときの話など、読んでいて息が切れる思いである。「海猿」を見ていると苦しくなってくるのと同じである。

 駆け足で三人の作家を簡単に説明したが、あまりに簡単すぎて失礼なような気がしないでもない。けれど、三人ともよく読む作家であることでもあり、別の機会にまた書くこともあるように思うので、今回は深く追求しないのである。乗り物に関するもの以外にも楽しい本がしこたま出版されているので、やっぱり別の機会でいいのである。「電車は楽しい」という本稿を力強く支えてもらったところで、結びとします。

 

2023年1月 擱筆

9 ムスメの英語

 「うちのムスメはテレビからの音声はともかく、英語の経験は皆無といっていいでしょう。我々はうちでは日本語しか話さないので日本語は年齢なりに理解しているでしょうが、英語はサッパリだと思います。」

 と言って現在7歳の長女を幼稚園に送り出したのが約4年前。我々の心配をヨソにムスメはむんむん英語を吸収し、今では次女が4歳、ふたりで遊んでいるときは英語で会話していることがある。

 

 うちの中では日本語で、というルールを作ったけれど、油断すると英語が聞こえてくる。そりゃそうでしょう、彼女らの生活の大部分を占める幼稚園や小学校は全部英語、学校で話す量と、うちでのそれとはお話にならない差があるもの。

 日本人である小生と、日本人である妻との間にできたムスメ共は、日本語より英語のほうが達者なのである。これは我が身に降りかかるまで思いもよらなかったことである。どうやら外国に住むというのはそういうことらしい。

 そういえばこどもの頃、近所のムトーさんちがイギリスに引っ越し、よくいっしょに遊んだご令嬢は戻ってきたときには英語しか話さず、小生の度肝を抜いたっけ。うちと同じくご両親とも日本人でしたけどねぇ。

 

 さて、ムスメ共が一歩うちに足を踏み入れさえすれば、両親との会話はすべて日本語である。我々はやつらが生まれたときから一貫して日本語しか話さないので、我々の言っていることは理解している。ただ、受け答えをする際に詰まることがままある。聞いて理解するよりも話すほうが難しいのは言語習得の常道であるが、それは「二ヶ国語目」で起こることでないの?キミたちが英語で話しているときに「えっと、えっと」となっているのを見たことないぞ。

 

 小生はムスメ共がおとなになって、二ヶ国語を自在に使いこなせれば何かの役に立つだろう、というような見地からモノを言っているのではない。やつらが英語ばかりになってしまうと「我々が」面倒なのである。将来ムスメと話すのにどちらかといえば英語でとか、もうまったく英語で、などという覚悟は我々にはない。

 

 ダンナ、もしくはヨメのどちらかがNZ人、もしくは他国人であっても英語圏のひとの場合、小生の観察によると、状況はうちより厳しいようだ。大多数は英語8割日本語2割、その日本語2割は聞いてギリギリ理解できるけれど、あまり話せないといった感じ。そりゃそうさ、ダンナとヨメが家の中で会話するのに英語を使っているんじゃ、日本語の立場がないもの。たまに日本語を話すダンナさん、ヨメさんもおれらるが、夫婦間の全会話が日本語であるとは思えない。だってNZに住んでるんだもんねぇ。そういうひとたちは、この先自分のこどもとずっと英語でコミュニケーションを取るつもりなんでしょうね。結婚相手がヨソの国の言葉を話すんだから、結婚する時点においてそれなりの覚悟が必要であったものと思う。母親が日本語で厳しくやればこどもはそれなりに日本語を話すというケースもあって、それはこどもといる時間の長い母親という立場のなせるワザであろう。スゴイの一言である。

 はたまたこどもとの会話も全部英語、日本語話せなくたってここはNZなんだしね、という剛の者もいる。ひとそれぞれである。

 

 うちの近所に日本語を話す同年代のともだちでもいればそりゃあ助かりますがね、いっしょに遊ぶときは日本語、というともだちは地元の同じ学校に通っていないから、滅多に会えないのである。

 

 そこへ世の中捨てる神あれば拾う神あり、ここクライストチャーチには「日本語補習授業校」なるものがある。これは日本語で、日本の教科書を使って授業を行う文部科学省認定の学校である。週に半日で、日本の1週間分を詰め込むという気合の入ったカリキュラムなれど、こどもが日本語を忘れないためには細かいことは気にしない。土曜日の午後が犠牲になるのも甚だ気に入らないが、せめて3年生の終わりまで、日本語の基礎さえできればあとはなんとかなるのではないか。そういう我々の都合で長女はシコシコ通っております。地元の自由な小学校と違うので、たぶん、長女は好きで通ってはいない。ムスメよ、あと2年チョイの辛抱だ。そこでもう一回考えるけれど(小学1年から中学3年まである)、日本語の基礎と九九さえ身に付ければとりあえず万々歳だぞ。

 

 それでは、ムスメ共の英語はどうかというと、どうやらこっちの7歳、4歳のこどもたちと何ら変わることはないようだ。小生がこどもの頃に話していた日本語が、英語に変わっただけの話。日本語が少々話せるぶん英語が足りないということは起こっていない。

 

 小生の場合、聞こうと思って集中して聞けばニュースは大丈夫。なにしろアナウンサーの英語はキレイだからね。これが映画だと、集中していても聞き取れないことが多々ある。こどもと一緒に映画館で見た「アナと雪の女王2」は大方理解できたが、「ボーン・アイデンティティ」3部作などは、一度ならず字幕付きで見て内容を知っているにもかかわらず、ジェイソンが何を言うておるのかちっとも聞き取れない。集中していない場合、つまりテレビはついていても見てはいない、といった状況の場合、日本のテレビなら注意していなくてもそれとなく情報が入ってくるけれど、英語の場合はただの音です。

 

 ムスメ共の語彙はオトナにかなうべくもない。よってニュースを理解できるかといえば必ずしもそんなことはないだろうが、どうやら一言一句聞こえてはいるらしい。アニメだとケラケラ笑って見ているから、全部聞こえて理解してるんでしょうね。小生だってアニメなら「だいたい」解るゾ。

 

 ひとくちにアニメといってもそこは英語圏、さまざまな国からやってくる。ダーウィン&ニューツ(Darwin and Newts)は国産でNZ英語を話す。ペッパ・ピッグ(Peppa Pig)は判りやすいイギリスの英語、これを英語の教材にしてくれたらよかったのにと思うほど、小生には聞き取りやすい。ポー・パトロール(Paw Patrol)はカナダ産でカナダの英語(と思う・・)、ドラゴンボールやポケモンはご存知日本産だが、なぜかアメリカ英語を話す。このようにひとくちにアニメといっても、作られた場所や吹き替えた場所により発音が違うのである。ムスメに聞いてみると「え、違いなんてあるの?」という感じ。NZは多民族国家であるから、学校だけでもさまざまな英語が話されており、いちいち頓着しないようだ。

 

 そんなある日、日本語に関心を持たせるべく「ドラえもん」を見せてみた。しかし悲しいかな国民的スーパースターの御光臨なのに、ムスメ共はちっとも食いつかない。

 そこで、ヨメが仕事でいない日曜の夜ご飯のときに、日本語の聞き取り力アップを視野に入れて、世界名作劇場「赤毛のアン」を週に2話づつ見ることにした。50話からあるので最終回までコッテリ半年、今になって見てもなかなかしっかりしたつくりで、ムスメ共も飽きずに最後まで楽しんだようだ。夜メシを食いながら、たまに父がグスグス泣くのもやつらの興味に花を添えたのかな?

 すると、「赤毛のアン」前には少し難しくて敬遠しがちであった「プリキュア」を最後まで見るようになった。おお、アニメ恐るべし、「のだめ」がフランス語(だったっけ?)を短期間で習得したのもあながちウソじゃないのかも。

 

 「赤毛のアン」はずいぶん前に最終回を迎え、ギルバートとアンはめでたく仲直りを果たしたのであるが、それ以前から日曜の夕食前の1時間ほどを、ムスメ共がユーチューブを見る時間としていた。何を見るかは彼女らに選ばせていて以前は何も制限をしていなかったところ、赤毛のアン効果を認めるに至り、「いいかおまえら、今日からは登場するやつが日本語を話すものしか見たらいかんことにする」という条件を設けた。現代っ子にとってユーチューブを見るのは至福の時間らしく、たいへん素直に従い、我々以外の人間の話す日本語を聞いて、知らず知らずのうちに日本語の語彙を増やしていることと思いたい。こども用の番組(というのか?)はテロップもばんばん出るから、字を見る機会になっているとも思いたい。

 

 こうして我々は老後に自分のこどもと英語で話さずともよい環境作りに余念なく、願わくばうちにある300冊を超える日本の本を、「読む」前提で譲り渡したいのである。

 

2021年9月 擱筆